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キトゥン・ブルー
下書き提供元...臥野さん
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取るに足らない不平について
正月ぐらい、たまには帰って来なさいよ。
お歳暮の礼と共に父母からのごく有り触れた要請を受けて、ようやっと重たい腰を上げたのは一月三日のことだ。パッと行ってパッと帰ってこようかと思ったのは確かだが、生憎と私は生粋の都民ではない。進学を機に東京へ出てきた私の根城は赤塚市にあり、その生家は県境を二つ越えて更に車を走らせた山の中腹に位置する。凡そ二百五十余キロの距離を、新幹線と普通列車を乗り継いで帰省するわけだ。今年の仕事始めは五日なので、無論長居は出来ない。
往復十二時間、そして滞在時間は十五時間。このことからも、私が父母と折り合いの良くないことが知れる。尤も“折り合いが悪い”と断言出来るほどの仲でもなかった。
所謂“田舎者”である父母にとって、長子でありながら上京した私は半ば“裏切り者”だ。すぐ下の妹が地元で進学・就職し、婿を取った事実を顧みると、如何したって彼女の方が可愛がられる。
長野県の片隅に生を受けた私は四人姉弟の長女であり、大学進学は強く反対された。姉弟は等間隔に二歳ずつ離れているから、私が高校三年生の時に一番下の妹は小学校六年生。まだまだお金も手も掛かる子どもが三人残っていることから、当然のように「私立大学に通わせるのは無理」と通告され、しかしながら県内の国立大学はギリギリアウトという微妙な学力を露呈させていた。
高校を出たらすぐ就職して、二十五までには結婚して欲しい。高校二年の夏、三者面談の前日に母親からそう言われたことがあった。その全てを裏切って私は上京した。
……裏切って、とはいってもアパートの家賃・学費は支援してくれたし、そう激しく反対されたわけでもない。“折り合いが悪い”と断言出来ないのと同じだ。でも……皆が皆大学に行くわけじゃないでしょう。そう不満げな母親を、父親が宥める。行きたいって言うんだから、行かせてやればいいじゃないか。声音ばかり優しいのを耳朶に感じながら、私は食卓に置いた自分の手を見つめていた。こないだ剃った指の毛が、もう伸びてきている。そんなことを考えているフリで、胸奥の感情に蓋をする。母親も父親も自分の大学進学を望んでいないのだという事実から目を逸らす。
優しい父が約束してくれた支援だけでは無論暮らしていけないので、大学時代はバイトに熱中した。コンビニと惣菜屋のレジを掛け持ちしながら大学へ通い、そのまま東京で就職した。
半年前に彼氏と別れ、二十七才の現在はひとりでボンヤリ暮らしている。
私が上京を渇望した理由は、何とも言い難い。
表向きは“地方で暮らす若者の例に漏れず都会志向だったからだ”ということにしている。
実際高校時代の私はクラスメイトたちとジャニーズやバラエティ番組――とんねるずのみなさんのおかげでしたとか、『ぷっ』すま、はねるのトびら、うたばん――を観て、友達の家で流行りの曲をMDカセットに録音して貰ったりした。学校から歩きで二十分もカラオケにもよく行ったし、十八番は倖田來未だった。しかしながら私が好きだったのは“倖田來未”ではなく、“皆の輪に溶け込んでいる私”だった。今も尚トレンドそのものに交流ツール以上の価値を見出したことはない。
高校時代の私にとって、将来の選択肢は二つしかなかった。高卒でJAあたりに就職して、二十五でお見合い相手と結婚し、死ぬまで地元に留まるか――もしくは上京して、OLになるか。
母の語る未来はあまりに現実味を帯びて生々しく、殆ど預言のような重さで双肩に圧し掛かってきたのを覚えている。私は、その呪いから逃れるために上京したに過ぎない。
遠路はるばる帰宅した生家の脇には一昨年結婚した妹夫婦の新居が聳えていた。
こんなクソ田舎にそぐわぬ西洋風のデザインからも、彼女が日々を謳歌しているのが知れる。庭らしい庭もないのに、鍬を積んだ手押し車の脇に太った小人のオブジェが転がってるのはいっそ滑稽でさえある。尤も庭はなくても、畑はある。家の左手に広がる田んぼは五十坪、家の表玄関の向かいにはブルーベリー畑が百坪、大昔に何か栽培してたのだろう謎の土地が百余坪。
畑仕事を熱心にやっていたのは祖父母世代が最後で、家を継いだ父を含めて、その子どもたちは畑と無縁の職に就いている。そのことに関して、祖父母は特に気にしていないらしかった。ただ自分たちが死んだあとも畑を残すなら手入れだけはしてやってくれとの意向に沿って、夏になると父母の手では穫りきれないほどのブルーベリーが実を結ぶ。夏場は、地面に落ちたブルーベリーの甘酸っぱい匂いで胸がきゅんとする。ブルーベリー摘みを余儀なくされるので、夏場は帰省しないことにしている。盆にやってくる親族の、特に子供らが農作業を手伝っているらしかった。
八月も末になると、お中元とは別に、1リットルのビニル袋にパンパンに詰められた生のブルーベリーと、瓶詰のブルーベリージャムを三つ送ってくる。祖父母が存命の時は、それに加えて手製の紫蘇のジュースやらリンゴジュースやらが混じっていた。三年前から少しずつ小さくなってきたダンボールを開封すると、一番上に母からの“手紙”が乗っている。
手紙というには素っ気なさすぎる紙切れには「今年は熱海の○○くんたちが手伝ってくれました」とか、「岐阜に嫁いだ××ちゃんが顔を見せに来てくれました。その子どもたちが積んだブルーベリーです」というようなことが綴られているのだった。大した意味もない走り書きから、私は遠く実家の台所で私宛の荷物を用意する母の姿を想像する。それと、少しの恨みがましさを。
母の文字を見ると、何故家に帰ってこないのか責められているようで尻の座りが悪くなる。
昔から考えすぎる嫌いがあると揶揄される私と逆に、二つ下の妹は楽天家だ。
大抵の場合は物事を難しく考えず、おっとりと自分の趣味に夢中になっていることが多い。
その“趣味”がアイドルのおっかけとか、映画鑑賞とかだと面白いのに、クソ詰まらないことに“うちの農産物を使って料理するのが好き”ときた。その誰からも愛される気性を妬んだのは一度や二度ではなかった。僻みっぽいから誰に言ったこともないものの「私ではなく、妹が家を継いでくれたのは父母にとってずっと喜ばしいことだったのかもしれない」とさえ思っている。
ちゃんの癇の強さは母親譲り、頑固なところは父親そっくり。親戚が集まると、宴席の恒例行事でそうからかわれたものだ。一方の妹は「温厚さは父親譲りで、愛想の良さは母親そっくり」と称されるのだから、私を作る時に卵子と精子が手を抜いたとしか思えない。
末妹と弟は年が離れすぎて、ひたすらに要領が良かった。私と妹が台所手伝いをしている間、今はもういない祖父母のまわりで甘やかされているのが常だった。それを理不尽に思う私を、聡明かつ寛容な妹は「手伝われても逆に邪魔になるし、仕事増えるだけじゃない」と諭す。
遺伝子に当たり外れがあるなら“残り物には福がある”の故事は正しい。
すぐ下の妹は言うまでもなく、末妹は田舎にあるまじき垢抜けた美少女だったし、弟は父母が“自慢の長男”と誉めそやすだけはある堅実さで、今は電力会社に勤務している。
母親は私が上京するのに強く反対したが、結局のところ地元に残ったのはすぐ下の妹だけだった。弟は愛知へ、そして末妹と私は東京で暮らしている。しかし、母親がその事で弟妹を責めていると感じたことはない。寧ろ去年の年末に帰省したきり帰ってこない末妹のことを酷く気に掛けているようで、今回の帰省では始終「林檎持ってくついでに様子見て来てよ」と言っていた。
そんなに連絡取ってないの? 温くなったお茶を啜りながら聞くと、母親はお節の残りを突きながら「お歳暮のお礼は来たんだけど……あの子何かあっても口に出さないでしょ」と渋い顔をする。そりゃパートに出ていない時は家事と農作業に追われてる母さんに言うより、私に言うほうが早いからね。そうした客観的事実をゴクリと飲み下して、心配顔の母から目を逸らす。
末妹は高校を出てすぐ結婚した。相手が私の大学時代の友人ということもあり、しょっちゅう電話を寄越す。何を揉めたのか「パート出るより、家で料理の練習でもしててくれって言うの」と、よりにもよって大晦日に長々とした愚痴を垂れ流されたのは記憶に新しかった。
妊娠してるのに、岐阜までねえ。
三が日も終わりとあって――それとも、盆暮れと長居した従兄弟たちのどれもが大人になってしまったから――懐かしい生家は深々とした雪に包まれて、しんと静まり返っている。
父親は絞ったボリュームで流される箱根駅伝に集中し、母親はすぐ下の妹と今年の正月を過ごせなかったのを延々と愚痴っていた。時たま父親が視線で促してくるのも無視して黙っていると、決まり悪くなった父親が唸るように低い声を漏らすのだった。ずっとこっちにいるんだから、正月ぐらいはゆっくりしてきてもらわないと。向こう様にとっても孫なんだし。
無心で落花生の殻を剥きながら、私は妹夫婦がいなくて良かったのか、いたほうが良かったのかチラと考えた。義弟は気の良い青年で、どことなく妹と似ている。かつて弟がそうだったように、父母は自慢の婿として大事にしているようだった。私も、嫌いではなかった。少し苦手なだけ。
昔から、私はこの家の何もかもが苦手だった。
祖父と同じ教職について忙しい父と、その父を陰日向となく支えて夫の家に尽くす母。年老いて温厚かつ睦まじい祖父母は親戚づきあいを大切にしていて、大した財産も権力もないものの親戚中から“本家”と称される我が家には兎に角ひっきりなしに客人が来た。私とすぐ下の妹は早々に家事を叩きこまれて、親戚の集まりがあるとなるや買い物から掃除に子守り炊事手伝いまで任される。クラスメイトたちが気ままに遊んでいるなか、自由時間が少ないことを不服に思う私と対照的に、すぐ下の妹は大人に混じって皿を洗ったり、子守りをするのを楽しんでいるのだった。
いつだって“良い子”の妹と、少しはにかみ屋だけど努力家で長男として一目置かれる弟、末っ子ということで祖父母の溺愛を受ける末妹は容姿にも恵まれて親族中から可愛がられていた。
良い家庭で育ったんですね。私が家族について話すと、誰もがそう口にする。確かに子供が育つ環境としては理想的だったのかもしれない――それが私の理想と合致してたかは別として。
帰りの電車のなかでビールを煽りながら、わたしは心底“家を出て良かった”と思うのだった。
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がたん、ごとん
帰省に伴う“不機嫌”と“帰路のやけ酒”は毎度のことだ。
上京以来疎遠になっているとはいえ、父母と折り合いが良くないのは今に始まったことではない。それに二十代後半ともなれば、自分の感情をリセットする術も心得ている。
大抵の場合、松本駅で売っている“安曇野ちらし”を肴にビールを三本空ければほろ酔い気分で、自分の現実が最早故郷にないことを思い出す。目にも嬉しい桜でんぶに錦糸卵、サクサクとした歯ごたえのタケノコや甘酢漬けのレンコンを楽しんでいる内に、肩の力が抜けるのだった。
もうあの家の何もかも、私の人生に直接的に関係ないものだ。
ああ……でも、それでもやっぱり……正月早々諭吉に羽根が生えると気が塞ぐなあ。
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「へえ」
私の話を聞いて、玄関先で所在なさげに突っ立っている一松くんがボリボリ頭を掻いた。
「……それが、そんなベロベロんなってる理由ですか」
彼が五文字以上――「ああ」とか、「ふーん」「なるほど」以外の――台詞を口にするのは、来訪の挨拶ぶりのことだ。来訪の挨拶といっても「どうも。長野くんだりまで行った割りに、ケッコ早かったですね」というごく簡素な台詞で、それでも一松くんにしては“かなり”社会性を意識して発言したほうだろう。一松くんはいつも、私に何か言う前に躊躇う素振りを見せる。
「あ、見かけほど酔ってはない」居た堪れない気持ちで愛想笑いを浮かべると、一松くんがサッと顔を背けた。けっこう傷つく。「……けど、顔に出てたら意味ないです、よ、ね」
沈黙。
「まあ……」
一松くんが身じろぎする度に、彼の肩に寄り掛かっている鉄製の扉がギイと傾ぐ。鈍い金属音が鳴る度に、ちらりと足元のキャリーケースに視線をくれる。なかには私の愛猫が収まっていて、一松くん曰くの“うちの連中”に構い倒されて疲れているらしかった。一松くんが私の家まで運んできてからというもの、小さい顔をブランケットに埋めたまま深々とした眠りを貪っている。
キャリーケースが相変わらず静まり返っているのを確認すると、一松くんは安堵の息を吐いた。
「弾丸帰省、おつかれさました」
「こちらこそ、一日預かって貰って助かりました。有難うございます」
気だるい声と共に会釈。私も一松くんに合わせて、軽く頭を下げる。
一松くんの会釈は独特で、相手に向かって後頭部を見せるように上体を屈めるのではなく、亀のように首を縮めることで頭の位置を低く見せる。始めて見た時は如何いう意図があるのだろうと困惑したものの、それが“会釈”だと理解してからは「一松くんらしいな」と妙に納得した。
「でも……お酒」
ボソボソッと、一松くんが言葉を続ける。
「一応女の人ですし、気を付けたほうがいいですよ」
昼日中から酒を煽るのはみっともないですよと暗に非難されて、何とも言えない気持ちになる。
祖父母をはじめ父方の親類に酒豪が多いのが関係して、酩酊するほど酔ったことは一度もなかった。発泡酒やビール、キオスクで売ってる酒類如きで潰れることはない。とはいえ一松くんが察知したとおり、多少なり頬は上気するし、口臭も酒気を帯びていたのだろう。
「まあ……電車の中でお酒飲むのは、あんまりみっとも良い姿じゃないよねえ」
「そういうことでもないけど」
「一松くんはお酒、好き? あんまり強くなさそうだけど」
取ってつけた風に話を広げると、一松くんがぎゅっと眉間にしわを寄せた。
「別に、あんまり好きじゃない」
会話技術がそのまま野球で通用するなら、この子はきっと名キャッチャーになる。
「そっか。最近はお酒飲まない人のが多いって言いますしね」
沈黙。
一松くんは私が投げたボールをミットで受け止めたきり、投げ返す素振りも見せない。
こりゃまたバッサリいくなあ。そう感心していると、一松くんの体がブルリと震えた。常日頃から半開きの瞼の下で淀んだ虹彩にとろんと膜がかかったことから、彼が欠伸を飲み下したのだろうことが分かった。十分近く愚痴を聞かされていたのだから、退屈するのも仕方ないことだ。
十八で家を出たのも関係して、普段から家族のことを他人に話したりしないのだが……酔いが多少自制心を緩めているのか、はたまた一松くんが相手で話しやすかったのだろうか。心底如何でも良さげな相槌を打つ一松くんに「乗り継ぎが多いからって言ってるのに林檎やお米持たされるし」とか「もう親戚は来ないだろうと思ってたのに、結局お年玉で二万飛んじゃったし」などと当たり障りのない、しかし全く“おもんない”話を続けてしまったのには申し訳なさしかない。
「なんか……寒いのに長々愚痴っちゃってすみません」
「べつに」
無感情に否定すると、一松くんがその場にしゃがみこんだ。
一松くんに釣られてキャリーケースを覗き込むと、ブランケット製の“巣”にもぐっていた仔猫が丁度顔を上げるところだった。あどけない瞳をぱちりと瞬かせて、ぐーっと伸びをする。
小さいなりに主人が分かるのか、私の姿を見とがめるなり“みゃあん”と舌足らずに鳴いた。
プラスチック製の扉に頭をこすりつけて甘える様も、扉にこすれてシャリシャリと柔い音を立てる体毛も、その全てが可愛らしい。如何して私に近づけないのか理解出来ないらしく、テシテシと扉を叩く様など、人の気を惹くためにわざと可愛いこぶってるのではないかとさえ思う。
一松くんの言う通り遊び疲れているようだったが、喉を鳴らして、興奮した様子で媚びている。普段は私とふたりきりだから、大人数に囲まれて余程楽しかったのだろう。
「本当に、預かって貰って有難うございました」
顔を上げると、またしても一松くんが顔を背けた。
ドアを開けてからの十数分で、もう五回は顔を背けられている。一松くんは、有り体にいって“コミュ障”だ。他人と視線を合わせることが、苦痛なのかもしれない。
気にしたところで無意味だと分かっていても、やはり気になってしまう。一松くんの横顔をまじまじ見つめていると、背けられた顔はそのままに視線だけが戻ってくる。
「じゃ、じゃあ、お、僕」
「改めてお礼も言いたいし、お土産もあるので中入って下さい」
一歩退いて居間の方角を手で示すと、一拍置いて一松くんが腰を屈めた。手に持ったキャリーケースを揺らさないように、のっそりと玄関に入ってくる。
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玄関を入ってすぐ左手にある居間にたどり着くまで、一松くんはたっぷり四十秒使った。
一松くんは私に敬語を使ってくれるし、私の話の最中に堂々と欠伸を漏らしたりもしない。しかし、そうした配慮も彼が猫にだけ向ける細やかな気遣いの前では塵に等しい。
遅々とした進みで居間にやってきた一松くんは、宝石の入った金庫を扱うかのような慎重さでラグの上にキャリーケースを下ろした。咄嗟に“砂利がついているのではないか”と思ってしまったものの、一松くんの満足気な笑みを見るなりその不満は萎れてしまった。
一松くんが恭しい手つきで扉をあけると、愛猫クロは(私が「黒猫だからクロって名前にしました」と言ったら、一松くんは「ところどころグレーが混じってるし、ブラックスモークだと思うけど」とこぼした)ツヤツヤとした黒い尻尾を揺らしながら、勿体ぶった足取りで出てきた。
私と一松くんに甘やかされ放題のクロは、最も忠実な臣下の手によって玉座に置かれる。IKEAで買った、北欧調のソファは三人がけなのに、一松くんはラグの上にそのまま座っている。
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一松くんと目の高さが同じになったクロが、みゃあんと鳴いて彼の頬に顔をこすりつけた。
お茶と茶菓子をローテーブルに置くなり、私も一松くんの脇に腰を下ろした。
凡そ三十時間ぶりに会った愛猫は、ボタンのように小さい鼻も、ふわふわの口元も記憶にある通り――それよりずっと可愛らしかった。ただ一点、アーモンド形に整った大きな瞳が、一松くんのように……うつくしく例えるなら、雨天の水溜まりのように濁っていた。
私の心配など素知らぬ顔で、クロはぐーっと背筋を伸ばす。
「なんか、目の色……昨日より濁ってますよね。病気とか?」
「違う」
間髪入れず、一松くんが否定した。
「あ、そか。なるほど」
思いがけず強い語気を受けて、僅かに怯む。これまで聞いたなかで、一番大きい声だった。
何か、一松くんの気分を害するようなことを言ってしまったのだろうか。私が困惑していると察するや、一松くんは唇を噛んだ。大きな声を出してしまったことを、悔いているようだった。
「……生理現象みたいなもんだから。心配することないです」
ああ、そうか。このタイミングで聞くと、まるで一松くんが何かしたか疑ってる風だな。尻のあたりをモゾモゾさせる一松くんを見て、今更ながら気付く。可愛そうなことをしてしまった。
私は二の句を思いついたらすぐにでも何か言えるように、口を緩く半開きにしたまま思案する。こういう時、一松くんが長々とした沈黙のあとで発する台詞は決まっている。帰る、だ。
あとはお礼の品を渡すだけなので、一松くんを引き留める理由はないのだけれど、この気まずい空気のまま“お開き”になるのは避けたかった。でも私はこういう時――目の前の誰かがこの場から逃げ出したいと願っている時、自分が如何振る舞うべきなのか分からない。
すぐ下の妹なら「そうなんだ。如何いうこと?」と何の衒いもなく問いかけるだろうし、末妹だったら「ほんと? 私があんまりこの子のこと可愛がるから、嫉妬しちゃったんじゃない」と悪戯っぽく笑うのだろう。しかしながら、私は父親譲りの不愛想な女だ。
「へえ、そうなんですか」
不自然な間を挟んでから、胃がひっくり返ったような、奇妙な裏声が出た。
「良かったあ、一松くんに教えてもらって安心しました。そうか、生理現象。不思議だなあ」
凄まじい棒読みではあったものの、一応こちらの誠意は伝わったらしかった。一松くんは私の台詞にあからさまにホッとした様子で、既に丸い背中を更に丸めて脱力する。
それから一松くんは、“生理現象”――キトゥン・ブルーについて教えてくれた。
生まれて間もない仔猫の場合、品種に関わらず、虹彩に色素が沈着していない場合が多く、青目に見える。成長と共に虹彩に色素がつき始め、徐々に本来の眼の色になっていくのだという。
日本語ネイティブとしては横文字というだけでロマンチックなように思うのだが、直訳すると“仔猫の青”だ。響きの割りに、即物的な名称だ。キトゥンという響きに愛らしさを覚えるのは仔猫のみならず、猫のくせして猫を飼うハローキティ嬢の存在が大きい。
活き活きとキトゥン・ブルーについて話しだす一松くんをボンヤリ眺めていると、いつのまにやら彼との距離が広がっていることに気付いた。相変わらず、一松くんの警戒心は野良猫並だ。
「瞳の色が変わるほどのことが起きてるんですよね。痛くないのかな」
話がひと段落したところで、私は“善い聞き手ですよ”とアピールするために雑感を漏らした。
それは相手が一松くんだからではなく、誰が相手でも同じことだ。他人の目に晒されている時、私は常に良い人ぶった言動を心がけてしまう。それが悪癖だと理解したのも、最近のことだ。
「聞いてみたらいいんじゃないですか」
一松くんのぞんざいな台詞に応えて、クロがみゃあと短く鳴いた。
「聞くって……」
「痛いとこないですかーって」
馬鹿にしたような声音に躊躇していると、身繕いをしていたクロが顔を上げた。
クロと一松くんを見比べて逡巡する私に、クロは思わせぶりな視線をくれる。それはまるで“何が知りたいの”と問いかけている風で、橙色に光を放つ電球を写し込んだ瞳は極めて知的に瞬くのだった。私も良い年をした大人なので、勿論猫が人語を解さないことは理解している。しかし一松くんがクロに向ける細やかな配慮を目の当たりにすると、何か通じるものがあるのではないかと錯覚してしまう。私は一松くんの「ま、騙されたと思って」という投げやりな台詞に促されるままにクロに話しかけた――クロが何かしらの答えを提示してくれることを期待して。
私の問いかけに対して、返事をくれたのは彼の首に付けられた鈴だった。クロは無言でソファを飛び降りると、あぐらを掻いて座る一松くんの膝の上に乗った。目を細めて喉を鳴らす。
小馬鹿にされてるようで、ちょっと傷つく。
「ほんとに言葉、通じると思ったんです?」
一松くんはクロと示しを合わせたように、ヒヒと陰気に笑った。
「一松くんが言ったんじゃないですか」あまりにも無責任な反応に顔を顰めて、そっぽをむく。「聞いてみたらって、クロと一緒に私のこと馬鹿にしてるみたい」
不意に、キッチンカウンターの脇に吊るされたコルクボードが目に入った。
コルクボードは、クロの写真の他に、猫を飼う上で欠かせない情報がぎっちり纏められている。クロの好きなキャットフードの商品名と値段、猫にあげちゃ駄目なものリスト――それから、一松くんの連絡先。出来る限り連絡してこないでくれと言われているので、連絡したことはなかった。
コルクボードの脇には、赤塚動物病院と印字の入ったカレンダーが並んでいる。来週土曜には、二回目のワクチン接種がある。それにも、一松くんが付き合ってくれる約束だった。
この、友人や恋人……単なる知り合い未満かさえ分からない関係も、もう二か月目になる。
一松くんとは、二か月前にアパート裏の路地で出会った。
もっと正確に言うのであれば、一松くんを認識していたのは半年以上前からで、直接言葉を交わしたのは三か月前がはじめてだった。だから“クロは一松くんと私の接点であり、二か月前にアパート裏の路地で出会った”と言うのが正しいのだろう。一松くんとのことを話すのに、クロは欠かせない存在だ。クロを拾う前、はじめて言葉を交わした時も、一松くんの名前は知らなかった。
ちょっと良いすか。
あ、はい。
それが私と一松くんの初めての会話であり、その時の私はコンビニエンスストアでホッカイロを買おうか止めようか迷っていた。
ホッカイロは、じわじわと温まっていく最中はあんなにワクワクするのに、少し時間が経つや死体のように固くなってしまう。防寒なら手袋やマフラーだけで十分だし、家には床暖房がある。淡い購買意欲が削げただけであって、別に一松くんにビビッて退いたわけではないのだが、一松くんが一松くんだと知ってから数日経った「あの時はサセンした」と謝ってくれた。
その時も、暗に“邪魔だ”と言われた時も、街中で彼とすれ違った時も、一松くんはいつもくたびれたトレーナーにジャージ、便所サンダルを突っかけている。
この町は変人が多いので、いつも同じ格好でブラブラしているからといって特別目立つということはない。それにも関わらず、私はずっと前から陰鬱なオーラをまき散らして歩く一松くんの存在に気付いて、ぼんやり田舎の中学生みたいだと思っていたのだった。後にして思えば、実際に職に就かず、昼間からぶらぶらしている生活習慣が滲み出ていたのかも知れない。
とはいえ、多少なり関心を持っていたといって、見ず知らずの他人に絡むほど危機意識が低いわけではなかった。何故だか一松くんの負のオーラに目を引かれつつも、私は「一生あの子との接点はないだろうなあ」とボンヤリとした確信を抱いていた。それが、クロを拾う一週間前のこと。
“接点”は、私のアパート裏にあるゴミ捨て場で鳴いていた。
捨てる側にも良心の呵責があったのか、ダンボールはガムテープで封鎖されていた。
横の空気穴からみゃあみゃあと響く泣き声と、パソコン印刷された「どなたか拾ってやって下さい」という張り紙がなければ、ゴミと一緒に回収されてしまっただろう。
騒々しく揺れるダンボールを見下ろして“飼おう”と決意するまでは、そう時間が掛からなかった。母をはじめ、半年前に別れを切り出した彼氏も、私のことを“薄情だ”と苛む。実際情に脆いほうではないと自覚してはいるものの、私だって寂しいと思うことはある。
独身仲間だった友人の結婚式に招待されただとか、仕事でミスをして、落ち込んだ気持ちのまま電車に揺られて帰ってきた時とか。落ち込んでいる時は、都会の喧騒は孤独を際立たせる。
そういった微かな寂しさが積み重なったところ、路地から頼りない鳴き声が聞こえてきたのだった。ほんと言うと泣きたいのは私のほうで、ぽっかりと胸に空いた穴を埋めるには、涙滴よりも捨て猫のほうが幾分やわらかそうだと思った。幸いにも、うちのアパートはペット可だ。
猫を飼うのははじめてだった。
大昔は鶏舎があったような気がするけれど、凶暴な鶏に近づくのが怖くて世話をしたことはなかった。尤も食用の家禽を世話した経験があったところで、何の足しにもならないだろう。
みゃあみゃあ鳴く段ボールごと部屋に持ち帰ったところで、早々に途方に暮れた。不運にも、親しい友達に愛猫家はいなかった。藁にも縋る気持ちでダックスフントを飼っている後輩にラインを送っても、一向に既読が付く気配がない。しびれを切らしてスマートフォンで「猫 飼い方」と検索しだしたのだが、性別だとか、何ヵ月の仔猫なのかとか、ミルクのあげ方とか、仔猫用のミルクというのはどこに売っているのかとか、獣医さんってどこにあったっけ? だとか、あれやこれやと文字の渦に巻き込まれるばかりで余計に混乱してしまった。そうこうしている間にも仔猫は浮遊感に怯えてみいみい鳴き、私の理性を削り取ってくる。
困窮した私は、段ボールを抱えたまま家を飛び出した。あのゴミ捨て場に何か――行きつけの獣医や好きな食べ物、プロフィールを記したメモとか――あるかもしれないと、思ったのだった。
そこで、ガチャガチャと猫餌をつめたビニール袋を片手に突っ立つ一松くんに出会った。
『猫、捨てるんですか』
今思うと、状況から見て仕方がない判断とはいえ、結構酷いことを言われた気がする。
『拾いました。拾ったんですが、どうしたらいいかわからなくて、戻れば何かあるのかと思って』
『はあ』
『ひょっとして猫、飼うつもりでしたか』
資格もないのに横取りをしたようで、後ろめたく思いながら聞いてみた。一松くんは肯定も否定もせず、ただ手を出した。「ちょっと貸して」と促されるまま渡すと、何の躊躇もなくビーッとガムテープを剥がして、中で縮こまっていた仔猫をひょいと摘まみ上げた。
目を白黒させつつも、熟練の漁師が魚でも捌くかのようだと思った。猫に慣れているのがよく分かる手つきだった。
『雄だ』
『わかるんですか』
『逆になんでわからないのかがわからない』
一松くんは、あやすように仔猫を抱き直した。
『こうしてやると安心するから』
仔猫はごろごろと、聞いたことのない音を喉からだした。
音だけ聞けば苦しげだが、うっとりと目を細め、一松くんの手に額を擦りつけるようにしているのを見ると、そうでないことがわかった。さっきまで怯えて、みゃあみゃあ鳴いてたのが嘘のようだ。他人の腕の中で幸せそうな仔猫に、猫を飼おうという気持ちが逸れはじめたところ、
『うちは猫以上にうるさいのがたくさんいるから』
と一松くんが呟いた。先の質問(猫、飼うつもりでしたか)への答えらしかった。これだけ猫慣れしているのだから、既に一匹や二匹飼っていても不思議ではない。
『ま、仔猫だからすぐ慣れるでしょ』
はい、と仔猫を手渡されたが、仔猫はじっとせずうまく抱けない。見かねたのか、一松くんが手をいれて姿勢を正してくれると、ようやく仔猫はあるべき場所を見つけたように落ち着いた。
全てを見届けると、一松くんは踵を返した。
『じゃ』地面に転がってるダンボールを蹴っ飛ばす。『がんばってください』
その極めて他人事めいた声音を聞いた途端、不安が(また仔猫が暴れてしまったらどうしよう。餌はコンビニで買ってくるとして、トイレとか病院とかどうすればいいんだろう)瞬時に駆け巡り「あのっ」が口から飛び出した。『ちょっと、ま』私の声に、一松くんが首だけで振り返く。
仔猫は既に私の腕に飽きた様子で、もしくは一松くんが離れていくのを察したのか、もぞりと華奢な肩を動かしていた。にゃあと、甘ったるい声で一松くんを引き留める。
『時間があったら、もう少し付き合って下さい』
自分は冷静なほうだと思っていたが、そうでもなかったらしい。
自宅の鍵を開け、ドアノブを回すと、一松くんがぼそぼそ呟いた。
『普通、若い一人暮らしの女性が知らない男を家にあげるなんてありえないと思うんですけど。しかも僕みたいなゴミを。……あ、もしかしてゴミだから安心しました?ゴミだって気を付けたほうがいいですよ。危険物が紛れ込んでいることだってあるんですから』
そんなことを言っていた。私とて抵抗がないわけではなかったが、かといって、やっぱりやめましょうと追い返すことはもっと出来なかった。ゴミ捨て場で拾ったのだからアパートははじめから割れているし、仔猫は、暗い目をした一松くんの指を吸うのに夢中になっていた。
『まあ、あの、あがって下さい』
そう言うより他になかった。
玄関扉をくぐると、一松くんは途端におとなしくなった。
部屋に入ると物珍しげに室内を見渡したが、ソファに座るよう勧めると、他にひともいないのに右端に詰めて座り、口を引き結びながらテーブルの角を睨んでいた。
台所に立った時、目が届かなくなることに微かな不安を覚えたが、杞憂だった。一松くんはその場からちくとも動かず仔猫のアスレチックに徹し、部屋を出る前と同じ姿勢を保っていた。
『で、どうしたら良いですかね』
紅茶の入ったマグを一松くんの前に置いて、本題に入ると、一松くんの石化がようやく解けた。
「最低限、トイレは必要。あと出来れば、高さのある玩具。キャットタワーってやつね」
きみぐらいの高さがある奴?と聞きたくなったのを堪えて、生けるグーグルの言葉を拝聴する。
『餌に関してはこいつ、まだ生まれて二、三週ってとこだろうから猫用のミルクを数時間ごとに小分けにして与えて。スポイトつかえばいいから。鼻から出ることもあるから、焦らずに』
『牛乳はだめですか?』
『腹壊すよ』
『キャットフードとかは……』
『まだ早い。やるなら、ふやかしてからだから』
『なるほど』
そういうものなのか、と頷く。
一松くんがいなければ、ウェットタイプの餌を与えてしまっていただろう。一松くんの話を聞くにつれ、不審者を家に連れ込んでしまったという悔いは形を潜め、感謝の気持ちが募るのだった。
猫用のミルクとやらを購入して、キャットフードは後でいい。後っていつだろう。これはネットで調べよう。まず問題になるのはミルクをあげる頻度だ。職場に猫をつれこむことは出来ない。
テーブルの端に置いておいたスマホを手に取って、カレンダーアプリを起動させる。次の休みまでは残り二日だ。しかしそれを過ぎたとして、またすぐに出勤日はやってくる。何週間? 何ヵ月? どれほど付きっきりで見ればいいのか、わからない。
一松くんは深々と考え込んだあとで、蚊の鳴くような声で呟いた。
『よかったら、面倒みましょうか』
『え?』
聞き返すと、だから、と少し苛立ったように早口になった。
『昼間暇なんで。朝預けてくれたら夕方ってか夜でもいいんですけど。返しますけど』
『でもそれは』
悪いですよ、と続ける前に、「アテがあんの?」と言われたので沈黙した。正直言って願ってもない申し出だが、預かることが可能であればそちらが飼えばいいのではなかろうか。
『てか、はじめから』
一松くんは言葉を切った。
『保護したら里親探すつもりだったんで。里親がはじめからいるかいないかの違いでしょ。まあ、どこの馬の骨とも知らない相手に預けるなんて不安でしょうね。わかりますその気持ち。俺だって俺なんかに預けたら、動画サイトに虐待映像とか流しそうって思いますし』
そういうこともあるのかと思うと同時に、「え?」と馬鹿みたいな声が漏れた。
『だってそんなに……』仔猫は一松くんの頭から肩に飛び降り、信頼できる相手を見つけたと言うかの如く喉を鳴らした。私が触れるときよりずっとリラックスしているのに、虐待?『その……すごくリラックスしてるの……暴力振るうような相手に、そんな甘えないですよね?』
心中のモヤモヤをそのまま口にすると、一松くんの顔がにわかに赤くなった。「べ、べべべ別に」一松くんがワナワナ震える度に、野良猫のようにボサボサの毛が逆立ってみえた。
『別に、そんな、こいつが甘えたなバカなだけじゃないの』
一松くんの頬に額を擦りつけていた仔猫が、批難がましく“みゃう”と漏らした。
その後すぐ「帰る」と言って立ち上がった一松くんを階段のところまで見送ってから、テーブルを片付けた。一松くんに淹れたお茶は半分まで減っていたが、茶菓子はそのままだった。
ラグの、一松くんが座していた箇所は撫でつけられて影になり、手をつくと微かにあたたかい。カーテンの隙間から階下を見下ろしたが、暗いばかりで何も見えず、静かな夜だった。
猫のことなんてよく知らないのに、猫みたいな人だな、とぼんやり思った。
それから暫くの間は互いにあまり踏み込まず、仔猫の話題ばかりを交わしていた。
一月経ったあたりで一松くんの人見知りが緩和されたようで、ぽつりぽつりと自分の話をするようになった。そこで彼がニートであることや、陰気なところがますます知れてきたが、兄弟の話になると、一松くんの暗い瞳がかすかに開き、周囲の光を吸収し彩度が変わってくるのだった。一松くんには六つ子の兄弟がいて、騒がしいながら満更でないと思っているらしい。
猫以上にうるさいのがたくさんいるからと言っていたが、それがまさか、五人の兄弟を指しているのだとは思わなかった。兄弟が多いせいで猫が飼えないのは、さぞストレスだろう。
私も大家族で育った身ではあるが、いやだからこそ興味を覚えた。別に弟妹を嫌いだと思ったことはないが、一松くんほど明確に好いているわけではない。同じ大家族でも兄弟たちと年が同じだからか、もしくは同性だから感じ方が違うのだろうか? それとも弟妹から見ると、うちの姉弟関係も睦まじいのかもしれない。成長と共に離れてしまっただけで、昔は仲が良かった、って。
一松くんの昔話を聞いていると、犬猫のように雑に育てられるほうが幸せなのかもしれない。
松野家の財政を思うと笑ってはいられないが、母親が息子たちを呼ぶのに個々の名を使うのでなく“ニートたち”で一括りにすると聞いたときは思わず吹き出してしまった。
私が思案している間も、一松くんはずっと猫の瞳について話していた。
「ヘーゼルかな」
「ヘーゼル?」
「猫の瞳の色。たぶん、それになる」
「そうなんだ」
ヘーゼル。繰り返し口の中で転がしいる内に不意に思い立って、一松くんの目を覗きこんだ。常時ねむたげに据わっているので、暗っぽくみえる。
「な、なに」一松くんはのけぞった声をあげた。
ぎょっと見開く目に、光が差し込んだ。光と思ったのは、私の着ているワイシャツの白が写っているだけだった。鏡にはまるで使えないが、楽しい感じはした。
「ちゃんと開くんですね」
「は?」
「目の話です」
「目付き悪いとかいいたいの」
一松くんの目が元通り据わった。
「そういうわけじゃないんですけど」
そういうわけです、とは言えない。
「いいよ。兄弟の中でも死んだ魚の目をしてる自覚あるから」
だから猫がこんなになつくのだろうか。と明後日の方向に考えた。
「確か、六つ子でしたよね。きっと賑かなんでしょう」
一松くんはさもつまらなそうに鼻をならし、仔猫を撫ではじめた。
「子供の頃からずっとですよ。おやつにしろ玩具にしろ、取り合いがはじまればもう戦争」
「私も似たことはありますよ。妹とぬいぐるみの取り合いをして、壊れちゃったからもう大泣き。眠るときにぎゅっとするほどお気に入りだったのに」
「それで?」
事務的に聞き返して、一松くんがカップに手を伸ばした。
カップの下で、白い皮膚に覆われた喉がごくりと嚥下する。いつも背中を丸めて俯いているから意識したことがなかったけれど、喉ぼとけは男性らしくゴツゴツしていて、触ると痛そうだった。
「見かねた祖母が、新しいぬいぐるみを買ってくれました。壊したのは犬だったんですけど、今度は猫のぬいぐるみ」そこで一瞬、言葉に詰まった。私もカップに手を伸ばして、一口お茶を飲む。「……ずっとぐずぐず言ってたのに、新しいのを渡したら泣き止んだそうです。もうぐっすり」
そう言って笑いかけると、一松くんは不思議そうに小首を傾げた。珍しく、目が合う。
「寂しいというか、物足りなかっただけなんでしょうね」
「今はどうしたの、そのぬいぐるみ」
「さあ、どこにいっちゃったんでしょう」
肩を竦めて話を濁すと、一松くんは、なんで? という風に眉を潜めた。
「……寂しいんじゃなかったの」
「それはそうですけど」
私はもう一口お茶を飲んで、喉を湿らせた。
犬のぬいぐるみは、母方の伯母が私のためだけに買ってくれた、特別な品だった。
八歳になってもずっと大切にしていたのは、その犬のぬいぐるみの造詣が可愛いとか、手触りが良いとかよりも、それが“私だけのもの”だったからだ。だからこそ妹にあげたくなかった。
しかし弟妹の世話に忙しい家族は、私の駄々に対し決して寛容ではなかった。妹との引っ張り合いで千切れたぬいぐるみを前に号泣する私と、釣られて泣き出す妹に、祖母は慌ててデパートへと車を走らせて猫のぬいぐるみを買ってきた。まるっきり同じ、猫のぬいぐるみを二つ。
単にぬいぐるみが欲しいだけだった妹と違って、私は祖母の大岡裁きに承服しかねていた。膨れ面で、妹を無視するばかりか猫のぬいぐるみに見向きさえしない私に、母親がキレた。
我儘だとか、おばあちゃんの気持ちを全然分かっていないとか散々に叱られて、私は猫のぬいぐるみと一緒に寝るしかなかった。つぶらな瞳とふわふわの体に愛着が湧くばかりか母親の無理解を思い出して不快でしかなかったので、ほとぼりが冷めた頃そっと押入れに仕舞ったのだった。
私が猫のぬいぐるみを連れ歩かなくなったのを見て、母親は“あんなに可愛がってたのに、薄情な子ね”とため息を吐いたし、祖母も“飽き性なとこがあるんだろうね”と笑った。
もうずいぶん昔の話だ。猫のぬいぐるみどころか、最早家族さえ側にいない。それを快いと思う私は、やはり薄情な人間だ。話の流れに出て来なければ、思い出すこともなかっただろう。
「まあ、今はこの子がいますから。それに、ほら、一松くんもいるしね」
バッサリ拒絶されたら如何しようと思ったけど、一松くんは何も言わなかった。
「ふ、ふーん……」照れた風に口ごもってから、目を泳がせる。「あそ……あっそ」
普段は負のオーラをまき散らしている一松くんだけど、嬉しかったり、喜んでいる時は分かりやすくて可愛らしい。そう思うのは、弟と同い年だからという理由だけではない気がした。
一松くんを見送って部屋に戻ると、お茶菓子として出しておいたクッキーが一つ減っていた。
ピンと閃いて一松くんのカップを浮かすと、空になったクッキーの袋が置いてある。何とはなしにそれを手に取って眺めると、袋を開ける時に出たのだろう切れ端が中に入っていた。
空の袋をくしゃりと握りしめた途端、思いがけず笑みが零れた。何故なのか、ほっとした。預かっている猫が初めて餌を食べてくれたような、そういう感じの安堵感だった。
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自分で言うのもなんだが、私は律儀なほうだ。
母親の言いつけ通り、末妹の住む八王子まで訪ねて行ったところ、不在だった。
勿論ふらりと訪ねたわけではなく、事前に「林檎届けに行くよ」とラインを送っておいたはずだった。ちゃんと既読もついたし、ふざけたスタンプも返ってきた。それなのに不在だった。
八王子駅に戻るバスのなかで「如何かしたのか」と何度かメッセージを送ったところ、調布のあたりでやっと既読がついた。やはりふざけたスタンプ(カッパが必死に頭を下げている絵だった)のあとに、「急に友達が来ちゃって」と、実に彼女らしい返事が来た。
仕事場のある麹町から八王子までは電車で一時間弱、決して近いとは言い難い。それにも関わらず遠方から来た姉より友達を優先させるあたりが、実に彼女らしいなと思った。
結婚を機に上京してから凡そ一年、来たばかりの頃は寂しい寂しいと言って度々私の家に入り浸っていたのを思えば、遊ぶような友達が出来たのは喜ばしいことだ。尤も容姿に恵まれている末妹のことだから、端からそう危惧していたわけではなかった。バイトでも始めればあっさり友達が出来るだろうと思っていたとおり、今は持ち前の社交力で楽しくやってるようだった。
ガーッと線路の上を滑る電車のなかでうとうとしながら、正直言って末妹に辟易していた。
家族に関わって、良いことがあったためしがない。
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一月半ば、春から最も遠い寒さが夜に立ち込めている。
八王子から自宅のある赤塚に着くと、夜の十時を回っていた。
平日の日中、クロを預かってくれている一松くんとは七時にアパートの前で落ち合うことになっている。飼い猫を預かってもらった上に家まで来てもらうのは申し訳ないのだが、一松くんは「出向いたほうが気楽だから」と言って、私が“うるさいの”と出くわす確率を上げたがらない。
クロを拾った日に教えて貰った電話番号について「出来る限り連絡してこないでくれ」と言ったのも、同じ理由らしかった。私も一松くんがあんなに慕う兄弟――それも、一松くんと同じ顔が六つ――には好奇心を擽られるのだが、嫌だと言うなら仕方ない。
今日は妹の家に寄るから待ち合わせを八時半にずらしてもらったのだけど、妹の反応を待っている内にこんな時間になってしまっていた。結局二日も預かって貰うことになってしまったな、明日会ったらお菓子でも……いや猫缶とかのが喜ばれそうだ。はーっと深々としたため息を漏らす。
疲れていて、一刻も早くお風呂に入って休みたいと思ってはいたけれど、今日は家に一人ぼっちだと思うと足が重い。一人暮らしも八年目で、一人にはすっかり慣れていると思ったのに。
鬱々とした歩みが、駅からの近道として愛用しているアパート裏の路地に差し掛かったところで「さん」とか細い声が聞こえてきた。ぎょっとして顔をあげると、一松くんがいた。
「え、え? え? なんで」
慌ててゴミ捨て場に走りよると、一松くんの足元にブランケットに覆われた何かがあった。
「これ、」地面に林檎の入った袋をどさっと落とすと、一松くんが眉を寄せる。「なにこれ」
「何って……クロ。ああ、湯たんぽ入れてあるから」
一松くんは腰を屈めて、中で眠っているのだろうクロを気遣うようにブランケットを撫でた。
いやクロもだけど、クロより自分は、一松くんはクロの防寒を整える時に自分の体を気遣おうとは思わなかったのだろうか。一松くんの指先は痛々しいほどに悴んで、赤くなっている。
ワナワナと小刻みに震える手を両手でもみ合うように擦っているので、つい手が伸びた。一松くんの手をぎゅっと包み込むと、一瞬だけ触れた皮膚が氷のように冷え切っていた。
びくりと一松くんの肩が跳ねる。
「いつから待っていたんですか」
呆れて聞くと、「そ、そそそんなに待ってない」と一松くんはぎこちなく視線を逸らした。
マスクが引っ掛かる耳の先が、窮屈そうに赤かった。片手で手を握ったまま、仔猫の鼻先をつつく感覚で耳にも指を伸ばす。こちらも、人体の一部とは思い難い冷たさだった。
「んえっ……なにっ」
いつも眠たげな一松くんの目が、驚愕に見開いていた。ひよひよとわななく虹彩に私の着こんだコートの青がうつりこんで黒目と溶け合い、忘れ去られた水場のような色をした。
「もっと温かいカッコしないと風邪を……いやこんなに待たせちゃってごめんなさい」
そもそもは私がさっさと妹に見切りをつけなかったのが悪いので、今更ながら謝る。それでも、まさか一松くんが私よりずっと律儀な人間だとは思わなかった。
「こんな時間まで待ってなくて良かったのに」
我ながら勝手な台詞だと思ったが、一松くんは私の言い分を真に受けたようで、しょんぼりと肩を落とした。それはそれで、一松くんには何の非もなかっただけに良心が痛む。
ややあってから、一松くんがそっと私の手を振り払った。
「……寂しいって、言ってたから」
ぼそっと呟いて、キャリーケースの脇にしゃがみ込む。
如何いう意味だと、茫然と一松くんを眺めていると、キャリーケースに風が入り込まないように壁面にくっつけてあること、下にダンボールを敷いてあることに気付いた。クロは湯たんぽの上でぬくぬくと、ちょっとの寒さも感じていないだろう。猫に対してはすごく優しい子だ。
わたしにたいしても、たぶん凄く優しい。少なくとも、末妹よりかはずっと。
『まあ、今はこの子がいますから。それに、ほら、一松くんもいるしね』
あんな、口から出まかせに近い台詞を真に受けて二時間近くも待っているなんて、思いもしなかった。みゃあんと媚びた声を出すクロに相好を崩す一松くんに、私は嬉しい気持ちになった。
なんていうか、末妹より一松くんのほうが私を気遣ってくれる事実が嬉しかった。私はじわっと目頭に滲んだ涙を手早く拭って、一松くんの上着の袖を引っ張った。
「とりあえずうちにあがって、あったかいお茶飲んでって下さい」
フリーサイズの手袋ありますし、帰りに貸しますから。そう言うと、一松くんが変な顔をした。
その夜から二日に一度の頻度で、一松くんをうちに上げるようになった。
不器用だけど優しい一松くんと、要領は良いけど薄情な自分とは相性が良いのかもしれない。
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一松くんは猫が好きで、ニートだったし、私とクロには彼が必要だった。だからこそ私は、私か一松くんの気持ちが逸れない限りはずっとこんな風にやっていけるものだとばかり思っていた。
破綻は思いがけない形で、そして私だけではなく末妹夫婦の身の上にも降りかかった。
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バレンタイン間近の水曜日、旧友に呼び出された。
旧友にして義弟でもあるロリコン……と言うと機嫌が悪くなるので、新婚旅行から帰ってきた二人を出迎えた時に冗談めかして言って以来口にしていないが、十五才の末妹を見初めたのだから実際ロリコンなんだと思う。こんなロリコンを一時でも好きだったとか認めたくない。
兎に角ロリコンから久々に酒でも飲もうとお誘いがあったので、彼が贔屓にしているとかいう居酒屋に赴くと「浮気されてるっぽい」ととんでもないことを打ち明けられた。
私としては「まあ、有りえなくはないな」という気持ちで、しかし夫その人に想定の範囲内だわとは伝えにくい。お通しのきんぴらごぼうを摘まむ手を休めて、重々しく「如何するの?」と聞いてやった。離婚して経済的制裁を与えるにしろ、ドラッグストアでバイトしているだけの末妹から取れるお金はごく少ない。実家の父母が出すことになるのかなと、薄ら思った。そして末妹は実家に帰るとして、今後如何するのだろう。まあ、まだ二十一才だから何とでもなるか。そんなことをつらつら考えながら被害者たるロリコンの話を伺うと、離婚の意志はないようだった。
「……じゃ、なんで私に打ち明けたの?」
「に聞いて欲しくて」
そう絞り出すと、ロリコンは日本酒をカパッと勢いよく煽った。馬鹿じゃないの。
いい加減私を痰壺にするのは勘弁してくれと思うも、そう口にして拒絶することは出来ない。
ロリコンは、私のそういうところをよく知っている。彼が私を頼ってくるのは、決して私を信頼しているからとか、私の同情を得たいわけでないと理解するまでに随分時間が掛かった。
浮気は宜しくないけれど、この男に捕まった末妹には多少なりの同情がある。何も分からない十五才の時に、ただ年が離れていて大人っぽく見えるという理由からアプローチを掛けただけで、普通の男女交際を経験する前に人妻になってしまった。馬鹿な子だ。
それでも二人の自由意思で結婚したのだから、一々私に頼ったり、相談したりするのは止めて欲しい。ロリコンが末妹に慰謝料を請求するなら止めはしないし、反省した上で謝罪するよう諭すことも出来る。しかし私の提案も介入も拒絶した上でただ「話を聞いて欲しい」と言って、悪酔いにつき合わされるのは御免だ。イライラと白木のカウンターを指で叩いて、スマホを弄る。
楽しい酒にはならないと分かっていたので、一松くんとの待ち合わせは九時にお願いしていた。あと十分でここを出ないと、また一松くんを長々と待たすことになる。そして、一度ああして待っていてくれた以上、一松くんが待っていてくれなければガッカリするだろう。
「とりあえず現状維持って結論出てるなら、悪いけど帰るから」
身勝手な失望を覚えるのが嫌で、私はロリコンの話を無視して立ち上がった。
ロリコンはすっかり酔っぱらっていて「相変わらず薄情だな」とか笑いながら、フラフラと私についてきた。永遠にそこで酒を飲んでればいいのに。
こいつ相手に借りを作るのは嫌だったから、自分の分はちゃんと支払った。安月給で無理すんなよと言われたのも、むかついた。二十一才私は何故、こんなプライドだけが高いデリカシーなさ男を好きだったのだろう。タイムマシンがあるなら、是非とも聞いてみたいものだ。
帰宅ラッシュから外れてそう混んでいない車内で、ロリコンは執拗に私に話しかける。
「そんな早く帰りたがるとか、彼氏でもできた?」
「そんなんじゃないけど。猫を飼いはじめたから、夜遊びしてらんないんだよね」
今後の親戚付き合いを思うと、やはり“オメーがウッゼーからだよ”とは言えない。大体妻に浮気されたってなら、私に愚痴るより先に当人同士で話し合うべきだと思う。
「マジで、見たい。俺、猫とかすっげ好きなんだよね。見せてよ」
このままでは、家まで着いてきかねない。というより、暗に“家行っていい?”と聞いているのだろう。私はぎゅっと眉を寄せてから、素知らぬ振りでスマホを取り出した。
「こんなん。毛色はブラックスモークだってさ」
カメラロールに保存された愛猫の写メを表示して、ロリコンに見せる。
「ふーん」
ロリコンは鼻を鳴らしてあからさまに不愉快を示すと、ぱっと私のスマホを奪い取った。
アッと思ったけれど、プライバシーを踏み荒らされる不快感より、ロリコンと揉めたくない気持ちのほうが優った。私と違って上場企業に就職したロリコンは父母のお気に入りで、場合によっては私よりずっと発言権がある。盆暮れと帰省を避けるのは、こいつと同席したくないのも理由の一つだった。まあ、実家で会わなかったとしてもこうして呼び出されるのだけど。
「なあ、誰こいつ」
ロリコンが、一松くんがうつりこんだ画像を見せてくる。にやりと底意地悪そうに笑った。
「好きなの? 趣味わる」
「……猫のことで、お世話になってる人」口が悪いのは一松くんと同じだけど、全然可愛くない。「まだ仔猫だから、私が仕事なんかで面倒見れないときに預かってくれるの」
「同棲してんの?」
「まさか」
「へぇ、仕事は?」
私は完全に沈黙した。
一松くんについて話せば話すだけ、攻撃される範囲が広がるだけだ。
間違いなく、私が今取れる対応のなかで“黙秘権の行使”は極めて正解に近かったと思う。
不運にも、常日頃から私とクロに優しい一松くんは、その日もゴミ捨て場で私を待っていた。
タチの悪い酔っ払いと化した義弟と連れ立って歩く私を見るや、一松くんは怖いほどの無表情を浮かべた。それから一松くんらしくもないキビキビとした足取りで近づいてくると、「こんばんはァ」粘着質な声音で、私たちに食ってかかった。「……こんばんはァ!!」
根が坊ちゃん育ちの義弟は、一松くんの尋常ならざる様子にすっかり飲み込まれてしまった様子で、それは私も例外ではなかった。一松くんが豹変した理由に薄らと見当はついていたものの、なんと言って説明すればいいのかわからなかったし、そして一松くんがこんなに攻撃的な態度を取れりとはあまりに予想外で、「え? え?」と狼狽える義弟の隣で呆然としていた。
「え、何? こんばんはァって言われて、なんて返したら良いのかもわかんないワケ?」
「あ……こ、こんばんは」
おどおどと、義弟が応じる。
激昂するでも満足するでもなく、一松くんはじいっと義弟の顔を覗き込んだ。
「今からセックスすんの?」
「は?」
一松くんが横目で私を伺う。
「彼氏?」
「いや、べつに……単なる知り合いです」
「フゥゥゥン……」
沈黙。
「僕、童貞だからよくわかんないけどォ」
一松くんがハッと、鼻で笑った。ジャージに両手を突っ込んで、上体を反らす。
「酔っぱらった女と男がァ、女の家を目指してれば、そりゃ今からしけこむんだろうなって想像が働いちゃいますよねェ。ナァアニすんのかなァー……」私と義弟を見比べ、旋毛からつま先まで舐めるように見回すと、「……あ、お邪魔さまァ」とゆらゆら歩き、すぐに見えなくなった。
末妹に林檎を届けに行った時と同じで、ゴミ捨て場の隅には完璧な防寒対策が施されたキャリーケースが置いてあった。ブランケットをのけて中を覗くと、クロが不思議そうに小首を傾げた。
一松くんは僕をおいてどこへいってしまったの。そう言っている風だった。
「……俺、帰るわ」
一種のショック療法と同じで、義弟も酔いがさめたらしかった。
義弟はぼうっとキャリーケースを覗いている私の背中に「なんだったんだろうね、あいつ。気を付けたほうがいいよ」と投げかけて、そそくさと帰っていった。
バカ野郎、おまえのせいでめんどくせえことになったじゃないか。最早今後の親族付き合いも、末妹の浮気もどうでもいいから、そう言ってやりたかったし、言ってやろうとも思った。
近年稀に見るほど腹が立ったのに、一松くんに軽蔑された動揺で体にうまく力が入らない。
案の定、その一件以来、一松くんは私のアパートに来なくなってしまった。
「何ソレ、ウケる」
事の仔細を聞き終えると、おそ松くんは手を叩いて笑った。
むかーし、こういうお猿の玩具を持っていたな。取り留めもなく考えながら、コーヒーを飲む。背後で赤々とした光を灯す、コンビニエンスストアで買ったものだ。知人の一人は“絶対に”ローソンのコーヒーじゃなきゃ嫌だと言うけれど、私にはどこの店のコーヒーも同じに感じる。
ぼうっとしていると、ガションと音がして、おそ松くんの足元に置かれていたアイスコーヒーのカップが倒れた。アスファルトにこぼれた氷が、つつーっと線を引いて流れていく。店の前に並んだアーチ型の車止めに腰かけたまま、おそ松くんはまだクックッと肩を揺らしていた。
このコンビニエンスストアは、一松くんとはじめて言葉を交わした――まあ、互いの記憶に残る形でエンカウントした場所と言うほうが正しい――場所だった。
我ながら女々しいとは思うが、一松くんがうちに来なくなって以来よく利用している。
一松くんの連絡先はまだコルクボードに貼ってあるし、その番号に電話を掛ければ確実にコンタクトを取ることが出来ると分かっていたけれど、名乗った途端にガチャンと切られてしまうのが怖くて二の足を踏んでいた。そもそも電話を掛けて良い間柄だったのかさえ朧で、一松くんをよく見かけたところや彼が好みそうな場所(野良猫が集まる、河川沿いの空き地とか)に足を運ぶだけだった。何というか、「探したんだよ」とか「会いたくて」と言うのは“重たい”気がして。
だからこそ今日、マガジンを立ち読みする“一松くん”をガラス越しに見咎めた途端、大急ぎで店内に駆けこんだのだ。「あっぐ、偶然だね! 一松くん、」そう勢い込んで話しかけると、
『えっ……は? 一松? 一松って猫以外に友達いるの? え、てか君、猫?』
私が“一松くん”だと勘違いした誰かはぎょっとした様子で目を剥いた。
『違います。いや、そもそも、あなたは一松くん……』
『ではないんだよなぁ。俺おそ松。一松の兄ちゃんね。君は?』
そこで私は一松くんが六つ子であることを思い出し、今目の前にいる“一松くん”が“猫以上にうるさいの”の一人であると悟ったのだった。実際おそ松くんはクロの百倍は五月蠅かった。
おそ松くんは「あいつに猫以外の知り合いがいるなんてほんとビックリでさあ」と笑うや否や、私が何故一松くんと親しくなり、そして何が理由で疎遠になったか事細かに聞きだした。
決して誰彼問わず話せることではなかったものの、おそ松くんが聞き上手だったこと、そして兄弟の口からあの夜のことが自分の誤解だったと知れれば仲直り出来るのではないかという期待から、気付けばすっかり(勿論、末妹の浮気についてはぼかしたけれど)打ち明けてしまっていた。
「一松くん、あんまり気にしないでいてくれると良いんですけど」
私は手持ち無沙汰に潰した紙コップを更に畳んだ。
おそ松くんはパーカーのポケットに手を突っ込んで、中で小銭を弄っているのかチャリチャリ音を鳴らした。目の前で立ち尽くす私を見上げて、肩を竦める。
「そーなっちゃうと、もう駄目だよなあ。ぶっちゃけ俺でも気まずいもん。無理無理、童貞宣言までしちゃってさ、どの面下げて会いに行けっての?」
あ、ちなみに俺もドーテー。要らん情報まで得て、私は深々としたため息をついた。
「そうですか……」
「さん、彼氏は?」
軽い声音を無視して、おそ松くんが倒したアイスコーヒーのカップを拾い上げる。
おそ松くんは六つ子だけあって一松くんと同じ顔をしているけど、声は全然一松くんと似ていなかったし、その親しみのある喋り口や、些細な感情の発露にさえ応えてクルクル変わる表情の豊かさは一松くんにはないものだ。多少なりクズではあったけれど(一松くんから様々な逸話を聞いていたことを差し引いても、初対面の人間にコーヒーを奢らせるあたり初っ端から飛ばすなあと思った)、人当たりはよく、明るくて、喋っていて面白い。一松くんよりずっと人に好かれるだろう。
自分で買った10円サラミを食べ出すおそ松くんに断りを入れて、その場を離れる。一言なり「あ、捨ててくれんの」と礼を言ってくれるかと思ったものの、おそ松くんは頷くだけだった。
「てかさ、連絡先知ってるでしょ? うちの電話番号」
入り口脇のゴミ箱から戻ってくると、おそ松くんは立ち上がっていた。
「あ、はい……知ってます」
「ふーん。なんか、そういうとこ一松と似てんね」
一松くんにシンパシーを感じたことがなかったので、おそ松くんの言葉に驚いた。
「……似てる?」
「なんだろ、他人に対して臆病なとこ? でも一松はさんと違って、こういうの慣れてて、頑なになってるからさ、さんが電話掛けないならこれっきりだろーね」
確信の伴う口ぶりで、おそ松くんが呟く。それは殆ど預言といって良い自信に満ち溢れていて、何故だか私よりずっと大人びた声音だった。四つも年下なばかりか、社会経験もゼロなのに。
「ま、それで良いんじゃない? 俺だって、兄弟じゃなきゃあんなんと一緒にいないし」
おそ松くんは「そんじゃねー」と片手をあげるなり、口笛と共に帰っていった。彼が去ったあとには10円サラミのビニル包装と、呆然と立ち尽くす私だけが残される。
あまりに呑気な後姿が見えなくなっても、私はおそ松くんが何故私を一松くんに似てると称したのか――自分が他人に対して臆病なのか、分からずじまいだった。そのまま暫く考え込んでいたけれど、指先の感覚がなくなってきたので、私もおそ松くんの後始末をして帰ることにした。
-
三月を間近に控え、三寒四温の言葉の通り日々の着るものや暖房器具の処遇に悩まされる。
クロはと言えば三回目のワクチン接種を終えて、でっぷりと太って親しみのある獣医さんの言うところによれば“やんちゃ盛り”らしいのだが、相変わらず大人しい。
助手のお姉さんにも「女の子みたいにお淑やかですね」と言われるぐらいで、しかしその後に続く「タマタマはあるけど、生殖機能がないのかな? でも、一応もう少し育ったら去勢も考えてみてくださいね」という言葉の生々しさは私をたじろがせる。生き物を飼う上で、“そういったこと”について話すのは避けられないのだろうが、それでも一松くんは私に猫の話をするとき、いつもさり気ないオブラートに包んで話してくれたのだなと気付かされる。それだけのことだけど、些細なことで一松くんを思い返す度、私は自分の臆病さについて考えてしまう。
頭の良いクロは、うちに来てからずっとキャリーケースのなかで私の出社を待つのを朝の習慣としていたけれど、少しずつ一松くんのいない退屈に慣れてきたらしかった。
最近は私が化粧をしていても、お気に入りのネズミの玩具(お尻のあたりについている、プラスチック製の輪っかを引っ張るとブルブル震えるやつ)で遊んでいる。
クロと一緒に、私も少しずつ一松くんと出会うまえの私――成人以降は精神的にも経済的にも自立するのが当たり前で、精神的に未熟な人間と関わるのはなるたけ避けるべきだと考えていた――に戻りつつあった。要するに私は、経済的に自立している自分は、精神的にも自立しているものだとばかり思っていた。多分、それは正しい。私は誰にも頼らずに生きている。
色々な人から“薄情だ”と言われる通り、私は他人に対する関心が薄いし、父母をはじめ弟妹たちにさえ心からの労りや同情を抱いた覚えがなかった。私はその“薄情な自分”を、彼らを“精神的に未熟な人間”と見下すことで正当化してきたのだと思う。私にとってそれは正しいことだったけれど、私の意識の外にある頃から事実として定まっていたわけではない。
正しいという言葉の意味は、私の気持ちが穏やかで、心身ともに苦痛がないってこと。
-
三月半ばになっても夜半の月はまだ冴え冴えと冷たい。
つめたい夜と彩度の高い昼を繰り返し、少しずつ昨日の寒さがどこへ行ったのか分からなくなる。そういう春の訪れ方だった。ビルとビルの間を抜ける風が、少しだけ冬の寒さを覚えている。
温かくなってきたけど、風がつよくて困るね。職場のひとたちと、当たり障りのない雑談を交わす。ゴールデンウィークあたりになると、今度は暑くなってくるんだよね。今年は、どこ行こうか。猫飼い始めたんじゃ、近場だよね。友達と、互いの希望・スケジュールをこねくり合わす。
私は一松くんのいない“正しさ”に慣れてきて、書店で買った本やインターネット、獣医さんたちのおかげで一人で猫を飼うことに不都合を覚えることも少なくなっていた。
その日は、風はなく日差しは温かで、とても天気の良い日だった。
私はリネン類からクッションカバーまで、洗濯機をフル回転させて、徹底的に家の掃除をしようと思い立つ。大量の洗濯物のためにベランダと洗面所の間を何往復するか考えると、根が無精者の私は愛猫を寝室に閉じ込めて、ベランダの扉を開けはなすことにした。
もうクロの好きな食べ物が何かはすっかり覚えていたし、猫にあげちゃ駄目なものリストも暗唱できる。逆にクロの写真はコルクボードに貼りきれない量になっていて、大掃除ついでにアルバムを買って来るかと思い立った。一松くんの連絡先は、コルクボードと一緒に捨てるつもりだった。
壁から外したコルクボードをフローリングの床に下すと、財布を取りに寝室へ向かう道すがら居間と台所、洗面所とを巡って、ありとあらゆる場所に散らばっている本を集める。
私の家の本棚は寝室に一つあるきりで、大抵の場合はナイトテーブルと化しているのだった。
階段状になっているのが可愛いと気に入って買ったものだけれど、この本棚に家中の本が全て収まっていたことは未だにない。冊数が多いのではなく、読んだあとで本棚に戻す習慣がないだけだ。ずぼらだとは分かっているけれど、そこかしこに本がある暮らしは退屈しなくて良い。浴槽に浸かりながら、パスタを茹でながら、トイレの中で、ちょっとした隙間の時間に読める本があるのは我ながら素敵だと思うものの、やはり掃除のときばかりは全ての本を本棚に収めたくなる。
本を抱えて寝室に入ると、クロはマットレスだけになって寒々しいベッドの上で一人遊びに精を出していた。例のネズミを殴る手を休めて、私に視線をくれる。
みゃあ。私が部屋に入るなり、クロはすかさず居ずまいを正して、“構って”と甘えた鳴き声を出す。本棚の前に本の塔を築いてから、私はクロの頭を撫でた。クロが幸せそうに目を細める。
掌に収まったクロの頭はふわふわで、あたたかくて、そして片手で潰せそうなほど脆かった。
それが、私とクロのさいごだった。
アルバムの入った袋をガサガサ言わせながら寝室に入ると、クロの姿はどこにもなかった。
本棚の前に積んだ塔は雪崩をおこし、崩れた本が重なり合って安定しているにころに乗ると丁度階段状になっている本棚の一段目に届く高さだった。各段の天辺に、クロの足場になりうるもの(雑誌とか、友達から貰ったクッキー缶、ジュエリーボックスとか)が置いてある。
本棚の後ろに設えられた窓は、クロが通れるだけの隙間があった。私は、その瞬間まで、朝起きたばかりの自分が窓を開けて風の強さを確かめたのを……鍵を掛け忘れてたのに気付かなかった。
あとはもう如何しようもなくって、周囲を探したがあの子は見つからず、変わりにアパートから歩いて五分の大通り、左車線の中ほどに腹の裂けた猫が転がっていた。
車やバイク、自転車たちは器用に死骸を避け、通りすがりの歩行者は汚物でも見たかのように顔を顰めて去っていく。切れ間なく走る車のなかには勿論無遠慮にクロの死骸に乗り上げるものもいて、私は歩道で立ち尽くしたまま、それが本当にクロなのか確かめなければならない使命感と、たった一時間でこんなことになってしまったのが信じられない気持ち、一瞬でもそれに触ることを躊躇った自分に対する自己嫌悪で、何を如何したら良いのか考えられないでいた。
気が付くと、通りすがりの人たちが車を止めて、どこからか持ってきたダンボールにクロの死骸を収めて私の腕に抱かせてくれた。その場にいた誰もが“仕方ない”と、飼い主の不注意を責めもせず、私に憐れみの視線をくれる。私にダンボールを手渡した人のシャツはクロの血で真っ赤になっているのに、私は羽織っているジャンパーにさえちょっとの汚れも付いていない。
弁償します、お幾らですか。そう言う声が震えていたのは愛猫が死んだショックというより、愛猫の遺骸を回収することさえ出来ない自分を惨めに思ったからだった。
奇妙な一体感で道路を封鎖してくれた人たちは、既にパラパラとどこかへ散ってしまっていた。たった一人残った赤いシャツの人さえ「安物だし、家はすぐ近くだから」と立ち去ろうとする。
『猫はね、仕方ないんだよね。あんまり気を落とさずにね』
私は消え去ってしまいたい心持で、ダンボール製の棺桶を抱く腕に力を込めた。
親切な人たちがいなくなってから、私は歩道の隅にいってダンボールのなかを覗いた。
蓋を開けるとツンと鼻をつく匂いがして、ウッウッと喉がひきつる。生理的な涙が頬を伝った。
ほんの一時間前まで、その日は麗らかな休日だった。清潔なベッドの上でクロは華奢な肢体を投げ出し、私を甘えた声で呼んでいた。掃除なんて、するんじゃなかった。アルバムなんか、なんで窓に鍵を閉めなかったんだろう。そもそも、本なんてあのまま散らばせておけばよかった。あんな本棚、捨ててしまえばよかった。ちょっと考えれば、クロが登るかもしれないって分かったのに。
口元を押さえながら尚も遺骸の状態を確かめると、首のあたりにチカッと光るものがあった。一松くんの気怠い声が、耳朶に蘇る。ちいさいから、家具の隙間とか入ってわかんなるなるかもね。首輪についた鈴は、チリチリと軽やかな音でもっていつもクロの居場所を教えてくれた。
尻尾は千切れ、タイヤに押しつぶされて幅広になっているそれは、間違いなくクロだった。
帰宅してからも、私は自分が何をしたらいいのか分からないままでいた。
こざっぱりとした居間に座り込んでいると、私はどうしようもなく一人ぼっちだと思った。
誰にも自分の汚さを理解してもらえない。そういう孤独がつま先から旋毛までいっぱいに詰まっていて、私は兎に角誰かに詰って欲しくて堪らなかった。私がクロの死で如何感じたかは抜きにして、クロが私の不注意のせいで死んだのは確実だった。私がクロを殺したんだ。
私のせいで死んだのに、誰も私を責めない。ちゃんと鍵が掛かってるか確かめておけば良かった。何で車道に飛び出して、クロの遺骸を抱き上げられなかったんだろう。クロを喪った悲しみよりも、自分に対する失望や劣等感、自己嫌悪ばかりが胸を締め付ける。
私が罰されることでしか、私を許せないと思ったから、私は、私とクロのことを一番よく知ってる人に公平な批判を受けることを望んだ。そして、それは一松くんを置いて他の人間には出来ないことだった。歩道で突っ立っていた時と違って、今度はちょっとの躊躇いもなかった。
私は壁に立てかけられたままのコルクボードににじり寄って、一松くんの連絡先が記されたメモを手に取った。一ヶ月以上も私を悩ませた電話番号は、あっけなく繋がった。
もしもし。三回目の呼び出し音が鳴った後、気怠い声が電話に出た。
『……もしもし?』
「あの、です」
そう名乗ると、受話器の向こうで息を飲んだのが分かった。
「クロが、死んでしまって」
相手が一松くんだと確信した瞬間、さっきまでの自分勝手な自罰衝動は薄れ、一言も発しない一松くん相手に何故今更電話を掛けたのか、電話を掛けるだけの“正当な理由”を説明できるのか――そもそも、そんな理由があるのか分からなくなってしまった。
「あの、事故で、私が不注意だったから外に出てしまって、さっき」
『クロ、死んだの』
ぼそりと、一松くんが呟いた。
「……そう、一松くんに凄く助けられたのに……懐いてたから、あの、お礼言おうと思って」
私はもう自分が何のために電話したのかも分からなくなって、一松くんを困惑させているだろう事実にひたすら恥じ入った。馬鹿なことをしてしまったという後悔から、カタカタと肩が震える。
「ごめんなさい。ほんとに、ほんとに凄いお世話になったのに。ありがとう。じゃあ、切るね」
強引な流れで電話を切って、私は膝に顔を埋めた。
自分が落とした影の暗さに浸っていると、ダンボール製の棺桶も、掃除したばかりで寒々しい居間も、他人事めいて明るい白熱灯の光も、この部屋のなかにクロの姿がない現実も見えなくなる。
私は、大切なぬいぐるみを壊された子どもみたいに大泣きした。
泣きながら眠るなんて、何年ぶりだろう。
繰り返し鳴るチャイムに目を覚ますと、やはり脇にはダンボール製の棺桶があって、居間はこざっぱりとしていて、電灯は明るく、クロの姿はどこにもなかった。
うたた寝の余韻を残して熱っぽい頭は、ぼうっと靄が掛かっている。チャイムが鳴った。二度三度と鳴り、しばらくすると、ドアノブを引く音がした。そういえば玄関の鍵も閉めていなかったなと思い返しても、立ち上がる気にならなかった。ギイ……と重たい音がして、扉が閉まる。
ぺたっと誰かの素足が廊下に上がる音がした。それでも“如何しよう”とは思わなかった。泥棒でも、人殺しでも、別に誰でも良い気がした。ぼんやりした視界に居間の入り口を映す。
玄関から居間まで来るのなんて二十秒もあれば十分なのに、闖入者の足音は疎らかつ遅々とした進みで、バリバリと何かを引っかく音が聞こえてくる度に立ち止まる。一体何をしているのか。
流石に得体のしれない闖入者に恐怖を覚え始めた頃、感度の鈍った耳朶が“みゃー”と、幼い鳴き声を拾う。はっと腰を浮かした瞬間、ピョンと薄汚れた仔猫がラグに飛び乗った。
仔猫の毛色は白と黒が入り混じった模様をしていて、クロとは似ても似つかない。瞳も、クロの聡明そうなヘーゼルとはまるきり違う、クロと出会ったばかりの青だった。
仔猫はあたりを伺ってから怯えた風に“みい”と一言訴えかけ、私はその陳情を耳にしても尚茫然としていた。何のためにここに連れて来られたのか聞きたいのは、私も同じだった。
「猫……ほら、新しい猫連れてきたから」
一松くんののっそりとした低音が、子どもの機嫌でも取るようにそっと言葉を紡ぐ。
泥棒でも人殺しでもなければ、あとは一松くんぐらいかなと頭のどこかで期待していたので、闖入者の正体にはそう驚かなかった。寧ろ一松くんが私の狼狽を知って、わざわざ様子を見に来てくれたのが嬉しくもあった。私は、一松くんが来てくれたのか嬉しかったのだ。
でも、一松くんが何故仔猫を連れてきたのかはやはり分からなかった。
私は一松くんを見つめたまま、自分が何と言うべきなのか困惑した。一松くんは、テレビ台と壁の隙間に逃げ込もうとした仔猫を捕まえると、私の前にしゃがみこんだ。
見知らぬ場所、見知らぬ人間二人に挟まれて怯え切った仔猫が一松くんの手に爪を立てる。よくよく見ると、仔猫はクロと同じぐらいの大きさだった。その警戒心の強さと風体からは、クロが私の家のなかで暮らしてきた間、外で野良猫として育ってきただろうことが分かる。
「また育てればいいから」
仔猫が一松くんの親指に噛みついて、高い声で鳴いた。
「こいつが死んでも、また連れてくるし……死んでも関係ないから、大丈夫……だいじょうぶ」
自分の手が“大丈夫”と言い難い状態になっているにも関わらず、一松くんが笑った。
その笑みは、可愛がっていた猫の死体の傍らで、そして恐慌を来して暴れる仔猫を押さえながら浮かべるものではないように思われた。一松くんの指を伝う血が、ラグに赤い染みを落とす。
今ここで泣くことは正しくない気がしたが、既に緩んでいた涙腺は呆気なく崩壊した。
「……えっ、なんで泣くの」
「ちがう」
私は溢れる涙を拭おうともせず、一松くんの手から仔猫を引きはがした。仔猫の小さい爪にバリバリと皮膚を掻きむしられて、ひどく痛む。自由の身になった仔猫は、ソファの下に入り込んだ。
私は一松くんの手を握ったまま、頭を振った。もう一度「ちがう」と言って鼻を啜った瞬間、一松くんの顔から表情が消えた。一松くんは瞳にじっとりとした憎しみを宿して、私を凝視する。
「……違う猫がいいの?」冷ややかな声だった。「あ、違う男のほうがよかった?」
冷たさのなかに怒りを内包した皮肉。私は、それが何を示すのかよく知っているはずだった。
猫のぬいぐるみを“要らない”と言った時の、母親の反応と同じ。一松くんは私に“その生意気な態度を改めて、自分に媚びろ”と言っているのだ。私は、そう要求されることに慣れていた。
慣れていたから如何したら良いのかは分かっていたのに、私は頭を振るだけだった。
一松くんの手から指を離して、僅かに距離を置く。一松くんがボソッと、「なんで」と漏らした。涙滴で滲んだ視界にも、一松くんの顔がさっと赤くなったのが分かった。
「ンデッツッテンダロォ!?」
私の胸倉に掴みかかった一松くんは、それでも私に手をあげなかった。
尾を膨らませた猫のように、フーッフーッと荒い息を繰り返す。激情で見開かれた瞳を間近に見つめて、私は猫のぬいぐるみのことで叱られた昔を思い返していた。
『なんでそんなワガママばっかりなの!』
バチン。皮膚と皮膚がぶつかり合って弾ける音が、幼い私の脳天を打ちぬいた。
まあるい頬を真っ赤にし、呆然としている私に、母親はハッとした様子で、振り上げたままの手を膝に落とす。あの手この手で宥めても一向に猫のぬいぐるみを受け入れない私に、いい加減我慢できなくなったのだろう。私は、幼いながら母親が私をぶった理由を推察して納得しようとした。
じりじりと痛む頬を押さえたきり口を噤む私に、母親が顔を顰める。それから、母親は言い訳っぽく「お姉ちゃんなんだから、我儘言わないで」と口にした。その時、何もかもから突き放された気がした。この人はわたしの気持ちを理解して、寄り添ってはくれないのだ。
言葉に出来ない失望と確信を胸に、私は猫のぬいぐるみを抱き上げて、“詰まらない意地から起こした癇癪が収まった子ども”のフリをした。ずっと、ずっと続けてきた。
「いちまつくん、おかしい」
私は喉を鳴らして笑った。自分でも、何が可笑しくて笑ってるのか分からなかった。
一松くんは、私の笑い声に瞳を和ませて安堵したらしかった。しかし私がケラケラと笑うばかりで、何も言わないでいると、怯えた風に身を引いた。呆然と、私を眺めている。
「こんなの、おかしい。ふつうじゃない」
私は際限なく零れる笑い声を手で殺して、低い声で喘いだ。
癇癪のまま私に掴みかかる一松くんも、結局は母親や末妹と何ら変わりない身勝手な生き物だった。そして、自罰衝動のために一松くんに縋った私も、彼らと同じ身勝手な生き物なのだろう。
同じ生き物同士なら意思の疎通が可能なはずなのに、私も一松くんも一人ぼっちだ。目の前に誰かいる状況で孤独を覚えるのは、誰もいない砂漠に一人きりでいるよりずっと救いがない。
その救いのなさが“精神的未熟さ”のせいだと言うなら、何をもってして“精神的に成熟している”と判断すれば良いのだろうか。経済的に自立しているからといって、精神的にも自立しているとは言い難いことを、私は身をもって理解している。猫なら瞳の色の変化で幼少期が終わったことが知れるのに、私は鏡を見ても自分の幼少期が疾うに過ぎて、今ここにいる自分は“精神的にも経済的にも自立した大人”なのか如何か判別出来ない。あまりに救いが無さすぎて、笑うしかない。
私は過去の傷から目を背け、孤独を諦念に、痛みを怒りにすり替える術ばかりが達者になっていた。そうして私は母親が私にしたように、私の感情を甚振って、飼い馴らそうとするのだ。
、大丈夫でしょう。精神的に未熟な人間に理解されないところで、大したことじゃない。
涙はとっくに止まっていた。
一松くんは私の着ているニットから手を離すと、虚脱感と共に傍らのソファに上体を預ける。私は瞬きの回数さえ減らしてまで沈黙を守り、クロではない仔猫はソファの下で大人しい。
私たちは暫くの間、そうやって静かにしていた。遠くで五時を知らせる鐘の音が聞こえ、私はやや現実に引き戻される。あと一時間もすれば国民的アニメが始まって、明日はまた会社に行かなければならない。飼い猫は、三親等には含まれないだろう。
会社を休みたいとは思っていなかった。寧ろ、早く明日にならないかなとさえ望んでいた。会社に行けば私の机があって、薄っぺらい話で談笑出来る相手がいて、頭を空っぽにして、自分がやるべきことに集中することが出来る。それが“私の日常”のあるべき姿だと思った。
「……ふつうって、なに」
ぼうっと考え込んでいると、ソファから顔を上げた一松くんが私を見つめていた。
「さんの自尊心を満たすための枕詞?」
「自分は普通、平均以上の人間だって言い聞かせて……劣等感もプライドも高い人間って救いようないよねェ。優しさの裏側で俺のこと見下してんの、分かってないとでも思った?」
キリッと唇を噛んだ一松くんが深々としたため息をついて、両の手を額に重ねる。俯きがちの顔には影が落ちて、彼がどんな表情をしているのかは分からなかった。覗きこめば分かるだろうと思ってもいたけど、体が動かない。「格下なら……猫でも、僕でも、何でも良いくせに」
ちがう。ぱくと開いた口からは何の音も零れず、私は癇癪を起した子どものように頭を振った。ちがう。ソファに手をついて立ち上がろうとする一松くんのトレーナーの袖を掴んだ。
「うそつき」
呪詛めいた泣き言を漏らして、一松くんは私の手を振り払った。
「ぼく、ほんと……ほんとに、」
危なっかしい足取りで立ち上がった一松くんが私を見下ろす。それを追って立ち上がろうとした私の膝に、仔猫が滑り込んできた。緊張が薄れたのか、好奇心が出てきたらしかった。
私を見上げるキトゥン・ブルーの瞳。去年の秋、キトゥン・ブルーという言葉を知った時はこんなことになるとは思わなかった。一松くんという“イレギュラー”に対する警戒心がなかったと言えば嘘になるし、彼が無職なことや、卑屈な物言いが目立つことで嫌な気分になったこともある。
温かくなってきたけど、風がつよくて困るね。一松くんと、そんな当たり障りのない雑談を交わしたかった。ゴールデンウィークには、二人で猫を同伴出来るカフェにでも行こうか。実家からの帰り道、春先の自分たちを思い描いたこともあった。それが、如何してこうなってしまったの。
一松くんの肩が震えて、大粒の涙が仔猫の上に落ちてきた。
突然の雨に驚いた仔猫は、ぴゅっとソファの下に逃げ込んでしまう。誰の感情も寄せ付けない安全地帯に。私たちもそうやって、ずっとソファの下にこもっているべきだったのだ。
「……ほんとに、あんたのこと」
あんたのこと、好きだったのに。惨めったらしく涙を零しながら、一松くんは踵を返した。
一松君の、凍えた子どもみたいに丸められた背が、よたよたと去っていく。皇帝ペンギンのような歩き方だと思った。不格好で、不器用で、卑屈――考えながら、私は両手で顔を覆った。
またソファの下から顔を覗かせた仔猫が、何があったのと言わんばかりに“にゃあ”と鳴く。仔猫は一松くんが教えてくれたキトゥン・ブルーの瞳で無邪気に私を見上げて、恐る恐る私を信頼しようと、愚かにも安全地帯から這い出てくる。そんなだから、一松くんに捕まるのだ。
仔猫はそうっと膝に前足を掛けて、にゃあと訴えかける。私が手を伸ばしても、ソファの下に逃げようとはしなかった。恐々触れた頭はクロと同じに小さくて、片手で潰せそうなほど脆い。
私は鼻水まで流して、みっともない泣き顔を仔猫に晒しながら、その体躯を抱き上げた。
仔猫の体は僅かに強張っていたけれど、少しずつ脱力して、ゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。人間の気持ち一つで殴られるかもしれない、甚振り殺されるかもしれないのに、如何して無防備に人間の手を受け入れることが出来るのか教えて欲しい。安全地帯から出るのが、恐ろしくないの。
うっうっと、惨めな嗚咽を漏らすと、仔猫は私を慰めるように“にゃあん”と鳴いた。
わたしだって、君が好きだったのに。
キトゥン・ブルー
私は愛猫の死体を正しく葬ってから、一松くんの連れてきた仔猫に名前を付けた。
イチと名付けられ、どことなく余所余所しい仔猫は、それでもたまに私の膝に乗り、体を任せてくることがある。その華奢な体躯に触れながら、私は目を瞑って、クロの鳴き声や、しなやかな四肢が伝える重さを思い出そうとするけれど、五感に残っていたはずのクロの記憶は、イチのものに塗り替えられてしまった。クロの写真を寝室に飾っていても、悲しみは少しずつ風化していく。
何もかも、少しずつ“大したもの”でなくなっていく――愛猫の目の色と同じぐらい、些末なことに。その忘却が自分の薄情さの象徴ではないのだと認めれば、少し楽になった。
東京都赤塚市は今日もお祭り騒ぎで、駅前のみならずあちこちの路地からも喧噪が聞こえてくる。その喧噪に一松くんの声が混じっていた気がして、私は俄かに人恋しくなるのだった。
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その後のこと
イチのワクチン接種を終えて動物病院の外に出ると、薄い財布をぽんぽん宙に投げながら歩くおそ松くんに出くわした。馴れ馴れしい笑みを浮かべたおそ松くんはことの仔細(ねえねえ、最近一松すっげー落ち込んでんだけど、なんかあったの?)をすっかり聞き終えるまで私に付き纏い、私は彼が女性にモテない理由を薄ら察した。一松くんと違ってコミュニケーション能力は高いのに、勿体ないことだ。もしくは、真っ当に女性と付き合いたいと思っていないのだろう。
「でもさあ、誰でも良いって気持ちで他人と一緒にいるのって、そんな悪いこと?」
とぼけた風に問いかけて、おそ松くんが肩を竦めた。
「自分より劣ってる人間見つけて安心するのだってありがちじゃん。ぶっちゃけ俺もさんのこと男の趣味悪いダメンズウォーカーだって思ってるし、さんだって俺のことニートでデリカシーのない奴だって思ってるでしょ〜? いーじゃんいーじゃん、トントンって感じでさ」
そんじゃ、まったねえ。おそ松くんは満ち足りた笑みに口笛を吹き流しながら、歩み去ってしまった。一人取り残された私は、やはりキャリーケースを手に下げたまま呆然とするのだった。
ああ、うん。そうだ。そう、トントンなのかもしれない。
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頂いた下書き(原文ママ)
◆キーワード
キトゥン・ブルー/「生後7週間くらいから虹彩に色素がつき始め、徐々に本来の眼の色になっていく」仔猫の時ブルー→成猫になりヘーゼルだとしたら、本来もっていたのはヘーゼルでありブルーは一時的なもの・偽りと解釈。
一松の本性/おそ松くん時代の比較的真面目な性格(ブルー)が本性なのではなく、もともとクズ(ヘーゼル)だった。
夢主が抱く一松への印象変化/クズ→実は真面目→やっぱクズ
【導入】
【起:生活の寂しさから猫を拾う夢主】
ゴミ捨て場で仔猫を拾う。拾ったはいいが世話の仕方がわからず、ゴミ捨て場に戻ると、仔猫の世話をしにやってきた一松と接触。
【承:猫を介して一松と交流することで元気になり、関係を深めていく】
猫:生後数週〜一か月
猫を育てる。一松との関係性を育てる。猫を育てることに不慣れな夢主は、一松を頼る。互いに距離をはかりつつの共同作業ではあり、一松は借りてきた猫のようにおとなしかったが、日増しに慣れてくる。一松が協力。慣れない夢主に対して猫に対する扱いがうまくよくなつかれている。一松がニートであり職につく気もないことを知る。猫に好かれてはいるけどクズだから無い。
猫の目の色が変化しはじめる。一松の変化。(クズ→実は真面目なところもある?)
一松が主人公に対し好意的になってきてる。バランスと相談しいくつか親密度のあがるイベントを挿入。
【転:一松のことで指摘を受ける】
猫:生後二ヵ月〜三ヵ月
一松との関係性の変化。悪化。結婚式に出席した夢主が、帰りに男性にアパートまで送ってもらう。目撃する一松。
【結:猫は死に物語も終わる。一松の本性を垣間見る。】
猫が死ぬ。一松との関係の終わり。
猫は事故であっさり死んでしまう。落ち込む夢主に、一松はわずか数時間で新しいキトゥン・ブルーの子猫を拾ってきて渡す。
一松の思考→ペット・ロスに対する慰めと、夢主との関係が絶たれることへの不安。喜んでくれるのではという期待
夢主の思考→そうそう容易く切り替えることなんて出来ないのに何だこいつ
夢主の反応を見た一松→好意を抱いていた相手に拒絶されたと認識。対応を間違ったことによるショック。
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【導入】
私はその話を一松さんから聞いた。仔猫の瞳の話だ。
綺麗な青色をしていた飼い猫の瞳が、雨天の水溜まりのような濁った色になったので、病気かしら不安を打ち明けたのだ。
一松さんははじめの青色を、キトゥン・ブルーとよんだ。
生まれて間もない仔猫の場合、品種に関わらず、虹彩に色素が沈着していない場合が多く、青目に見える。成長と共に虹彩に色素がつき始め、徐々に本来の眼の色になっていくのだという。
「瞳の色が変わるほどのことが起きてるんですよね。痛くないのかな」
「聞いてみたらいいんじゃないですか」
言われた通り尋ねてみたが、猫は人語を解さないし、そもそもこちらを見向きもしなかった。
「言葉、通じると思ってます?」
吹っ掛けたくせに、一松さんはヒヒと笑った。少しむっとして、視線をそらした。壁掛けのカレンダー、コルクボード。レシート、動物病院の営業時間、キャットフードのメーカー名、猫にあげちゃ駄目なものリスト。それから、一松さんの連絡先。そんなものがぎっちり書き込んであるのが見えた。
こんな会話も、もう二ヶ月目になる。
【起】
一松さんとは、二ヵ月前にアパート裏の路地で出会った。もっと正確に言うのであれば、一松さんを認識していたのは半年以上前からで、直接言葉を交わしたのは三ヵ月前がはじめてだった。
くたびれたトレーナーにジャージ、便所サンダル。田舎の中学生みたいだ、というのが第一印象で、後にして思えば、実際に職に就かず、昼間からぶらぶらしている生活習慣が滲み出ていたのかも知れない。
仕事でミスをしただとか、恋人がいないだとか、独り身だった友人の結婚式に招待されただとか、SNSで見た猫画像が可愛かっただとか。そういった微かな寂しさが積み重なったところ、捨て猫という形で、やわらかそうな穴埋めのパーツを見つけたのだ。
猫を飼うのははじめてだった。それどころか犬やハムスターを飼ったこともなかったので、段ボールごと仔猫を部屋に持ち帰って早々に途方に暮れた。
スマートフォンで「猫 飼い方」と検索しても、性別だとか、何ヵ月の仔猫なのかとか、ミルクのあげ方とか、仔猫用のミルクというのはどこに売っているのかとか、獣医さんってどこにあったっけ? だとか、あれやこれやと迷い、仔猫はみいみい鳴き、あのゴミ捨て場で何か見落としてはいないかと、また段ボールを抱えて慌てて飛び出したのだ。
そこで、ガチャガチャと猫餌をつめたビニール袋を片手に、ゴミ捨て場で突っ立つ一松さんに出会った。
「猫、捨てるんですか」
「拾いました。拾ったんですが、猫飼ったことないし、どうしたらいいかわからなくて、戻れば何かあるのかと思って」
「はあ」
「ひょっとして猫、飼うつもりでしたか」
資格もないのに横取りをしたようで後ろめたく思いながら聞くと、肯定も否定もせず、一松さんは段ボールに手を突っ込み「ちょっと貸して」とひょいと猫の首をつまんだ。
「雄だ」
「わかるんですか」
「逆になんでわからないのかがわからない」
一松さんがあやすように仔猫を抱き直した。
「こうしてやると安心するから」
仔猫はごろごろと聞いたことのない音を喉からだした。音だけ聞けば苦しげだが、うっとりと目を細め、一松さんの手に額を擦りつけるようにしているのを見ると、そうでないことがわかった。
猫を飼おうという気持ちが逸れているのを感じ入っていると、
「うちは猫以上にうるさいのがたくさんいるから」
と一松さんが呟いた。先の質問の答えだった。
はい、と仔猫を手渡されたが、仔猫はじっとせずうまく抱けない。見かねたのか、一松さんが手をいれて姿勢を正してくれると、ようやく仔猫はあるべき場所を見つけたように落ち着いた。
見届けて、一松さんは踵を返した。
するとまた仔猫が暴れてしまったらどうしようだとか、このあとどうすればいいのかとか、不安が瞬時に駆け巡り「あのっ」が口から飛び出した。
一松さんが首だけで振り返った。
【承】
鍵を開け、ドアノブを回すと、一松さんがぼそぼそ呟いた。
「普通、若い一人暮らしの女性が知らない男を家にあげるなんてありえないと思うんですけど。しかも僕みたいなゴミを。……あ、もしかしてゴミだから安心しました?ゴミだって気を付けたほうがいいですよ。危険物が紛れ込んでいることだってあるんですから」
そんなことを言っていた。私とて抵抗がないわけではなかったが、かといって、やっぱりやめましょうと追い返すことはもっと出来なかった。ゴミ捨て場で拾ったのだからアパートははじめから割れているし、仔猫は、暗い目をした一松さんの指を吸うことに必死だった。
「あがって下さい」
そう言うより他になかった。
玄関扉をくぐると、一松さんは途端におとなしくなった。
部屋に入ると物珍しげに室内を見渡したが、ひとつしかない座椅子を勧めるとその上に正座して、口を引き結びながらテーブルの角を睨んでいた。
台所に立った時、目が届かなくなることに微かな不安を覚えたが、杞憂だった。一松さんはその場からちくとも動かず仔猫のアスレチックに徹し、部屋を出る前と同じ姿勢を保っていた。
お茶を淹れ、本題に入ると、ようやくちらと視線をあげた。
「最低限、トイレは必要。あと出来れば、高さのある玩具。キャットタワーってやつね。餌に関してはこいつ、まだ生まれて一、二週ってとこだから猫用のミルクを数時間ごとに小分けにして与えて。スポイトつかえばいいから」
「牛乳はだめですか?」
「腹壊すから」
「キャットフードとかは……」
「まだ早い。やるなら、ふやかしてからだから」
「なるほど」
そういうものなのか、と頷く。猫用のミルクとやらを購入して、キャットフードは後でいい。後っていつだろう。これはネットで調べよう。まず問題になるのはミルクをあげる頻度だ。職場に猫をつれこむことは出来ない。
カレンダーを見上げて、次の休みを数えた。残り二日だが、それを過ぎたとして、またすぐに出勤日はやってくる。何週間? 何ヵ月? どれほど付きっきりで見ればいいのか、わからない。
一松さんはしばし逡巡した後、聞こえるか聞こえないかといった音量で呟いた。
「よかったら、面倒みましょうか」
「え?」
聞き返すと、だから、と少し苛立ったように早口になった。
「昼間暇なんで。朝預けてくれたら夕方ってか夜でもいいんですけど。返しますけど」
「でもそれは」悪いですよ、と続ける前に、「アテがあんの?」と言われたので沈黙した。正直言って願ってもない申し出だが、だったらそちらが飼えばいいんじゃないの?と思う。
「てか、はじめから」
一松さんは言葉を切った。
「保護したら里親探すつもりだったんで。里親がはじめからいるかいないかの違いでしょ。まあ、どこの馬の骨とも知らない相手に預けるなんて不安でしょうね。わかりますその気持ち。俺だって俺なんかに預けたら、動画サイトに虐待映像とか流しそうって思いますし」
そんな発想はちくとも浮かばかなかった。
「え?」
と馬鹿みたいな声が漏れ、面食らってしまう。
「だってそんなに……」猫の扱いが達者なのに。猫だってリラックスしてるのに?「やさしいのに」
一松さんの顔がにわかに赤くなり、毛が逆立ってみえた。
階段のところまで見送った後、テーブルを片付けた。一松さんに淹れたお茶は半分まで減っていたが、茶菓子はそのままだった。ラグの、一松さんが座していた箇所は撫でつけられて影になり、手をつくと微かにあたたかかった。
カーテンの隙間から階下を見下ろしたが、暗いばかりで何も見えず、静かな夜だった。
猫のことなんてよく知らないのに、猫みたいな人だな、とぼんやり思った。
最初はあまり踏み込まず、仔猫の話題ばかりを交わしていた。そのうちに一松さんがニートであることや、陰気なところがますます知れてきたが、兄弟の話になると、一松さんの暗い瞳がかすかに開き、周囲の光を吸収し彩度が変わってくるように見えた。一松さんには六つ子の兄弟がいて、騒がしいながら満更でないと思っているらしい。
犬猫じゃあるまいし、六つ子というだけで興味を覚えた。同じ顔が六つもあると、どんな気持ちになるのだろう。二十歳を過ぎれば積み重ねた経験や栄養で見た目に変化はあらわれるのだろうか。そうやって、一松さんを凝視する機会も増えた。
一松さんの猫の瞳の話は、まだ続いていた。
「ヘーゼルかな」
「ヘーゼル?」
「猫の瞳の色。たぶん、それになる」
「そうなんだ」
ヘーゼル。繰り返し口の中で転がして、ふいに思い立って、一松さんの目を覗きこんだ。常時ねむたげに据わっているので、暗っぽくみえる。
「な、なに」一松さんはのけぞった声をあげた。
ぎょっと見開く目に、光が差し込んだ。光と思ったのは、ワイシャツの白だった。鏡にはまるで使えないが、楽しい感じはした。
「ちゃんと開くんですね」
「は?」
「目の話です」
「目付き悪いとかいいたいの」
一松さんの目が元通り据わった。
「そういうわけじゃないんですけど」
「いいよ。兄弟の中でも死んだ魚の目をしてる自覚あるから」
だから猫がこんなになつくのだろうか。と明後日の方向に考えた。
「確か、六つ子でしたよね。きっと賑かなんでしょう」
仔猫を拾いたてのとき、そんな話をした記憶がある。猫以上にうるさいのがたくさんいるからと言っていたが、うるさいのがまさか、五人の兄弟を指しているとは思わなかった。
一松さんはさもつまらなそうに鼻をならし、仔猫を撫ではじめた。
「子供の頃からずっとですよ。おやつにしろ玩具にしろ、取り合いがはじまればもう戦争」
「私も似たことはありますよ。友達とぬいぐるみの取り合いをして、壊れちゃったからもう大泣き。眠るときにぎゅっとするほどお気に入りだったのに」
「それで?」
「見かねた祖母が、新しいぬいぐるみを買ってくれました。壊したのは犬だったんですけど、今度は猫のぬいぐるみ。ずっとぐずぐず言ってたのに、渡したら泣き止んだそうです。もうぐっすり。寂しいというか、物足りなかっただけなんでしょうね」
「今はどうしたの、そのぬいぐるみ」
「どこにいっちゃったんでしょう」
首を傾げると、一松さんは、なんで? という風に眉を潜めた。
「寂しいんじゃなかったの」
「それはそうですけど」
もうずいぶん昔の話だ。ぬいぐるみが側になくて、ぐずぐず泣く時期はとうに過ぎた。こうして話の流れが出来なければ、思い出すこともなかった。
大人になると、なくてはならないものだったものがぽろぽろ零れていって、我慢や妥協で隙間を埋めながら歩いてく。賄いきれればいいがそうもいかないので、たまに、何かを拾って隙間に埋める。やわらかな仔猫の体とか、話し相手とか。
「今はこの子がいますから。一松さんもいらっしゃいますし」
「ふ、ふーん……」
「えっと、ハサミ…」
「いいですよ、開けますから」爪で開ける。
「随分長いんですね」
「切り忘れただけですよ。…随分、綺麗にしてらっしゃいますね」
「ああ」「来週、友達の結婚式があるんです。それにあわせて少し」
「へえ」
「結婚のご予定は?」
「結婚は一人じゃ出来ませんから」「そういう一松さんは?」
「ゴミクズは結婚出来ませんから」
「じゃあ、ちょうどいいですね」
「は?」
「え?」
なんとなく、少し空気が変になる。(恋愛関係の気配)
一瞬触れた皮膚が、ドアノブと同じほど冷たかった。
「いつから待っていたんですか」
驚いて聞くと、
「そんなに待ってない」
と一松さんはぎこちなく視線を逸らした。マスクが引っ掛かる耳の先が、窮屈そうに赤かった。仔猫の鼻先をつつく感覚で指先を伸ばし、好奇心のままにつまんだ。冷たい、と感想を抱くよりも早く、一松さんが跳ねる。
「なっ…」
いつも眠たげな一松さんの目が、驚愕に見開いていた。ひよひよとわななく虹彩にブルーの制服がうつりこみ、黒目と溶け合い、忘れ去られた水場のような色をした。
「あったかいお茶飲みましょうよ」
触れた冷たさをしまい込むように、そっと掌をまるめた。
【転】
「彼氏でもできた?」
「そんなんじゃないけど。ええと、猫を飼いはじめて」
「ほんと?見たい!」
スクロールしていくと、一松さんがうつりこんだ画像も何件かあった。友人が、にやりと悪そうに笑った。
「誰?この人」
「猫のことで、お世話になってる人。まだ仔猫をだから、私が仕事なんかで面倒見れないときに預かってくれるの」
「同棲してるの?」
「まさか」
「へぇ、仕事は?」
「無職?あー……こんなこというのも何だけど、大丈夫?学生ってわけでもないよね」
「優しい人だよ。初対面なのに猫の飼い方教えてくれて、猫の世話を引き受けてくれたし。うちの猫もとってもなついてるの。ほんとに」
話せば話すほど、友人の顔がひきつっていった。
「猫、飼ってるんだって?俺も実家で飼ってるんだ」
「こんばんはァ」「……こんばんはァ!!」
「こ、こんばんは」
「今からセックスすんの?」
「は?」
「彼氏?」
「え、いや…」
「フゥゥゥン……」「僕、童貞だからよくわかんないけどォ」「酔っぱらった女のアパートで男が話し込んでれば、そりゃ今からしけこむんだろうなって想像が働いちゃいますよねェ。ナァアニすんのかなァー……」旋毛からつま先まで舐めるように見回すと、「…………あ、お邪魔さまァ」とゆらゆら歩き、すぐに見えなくなった。
なんだったんだろうね、彼。気を付けたほうがいいよ。
そんなことを言いながらそそくさと帰った男を見送り、その足でアパート裏のゴミ捨て場のところまでいくと、一松さんがいた。
「あの、こんばんは」
「……こんばんは」
「さっき、ありがとうございました。なかなか切り上げられなくて、困ってて」
「連れ込まなかったんだ」「僕の時は簡単に連れ込んだのに」
「一松さんの時は違うじゃないですか」
「違うって何が?ゴミの種類が?」
「あっ」「一松さん、あの」
「ん?」「今一松って言った?」
「え?ええ、呼びましたけど…」
「えっマジで?一松って猫以外に友達いるの!?しかも女の子じゃん何アイツ!まさか彼女…」
「違います。いや、ていうか、一松さんじゃ…」
「ではないんだよなぁ。俺おそ松。一松の兄ちゃんね。君は?」
「です」
「ちゃんかぁ。一松に何か用事?」
「用事というほどのものじゃないんですけど、最近お会いしていなかったので、ちょっと声を掛けてしまって。元気かなって」
「ふーん……。ああ、そう。なるほどねェ」「まぁ、元気かどうか知りたいなら本人に直接聞けばいいじゃん。連絡先知ってる?なんなら俺教えてあげるけど。アドレスは?てかどこ住んでんの?」
「ああ、や、大丈夫です」
「やべ、もうこんな時間か。帰ったら一松に伝えとくよ。ちゃんから連絡くるから、いつまでもぼーっとしてないで携帯見とけよって」
「えっ、いや、それは」
会えませんか?とメッセージを送った。
【結】
帰宅すると、窓が開いていた。猫の姿はなかった。周囲を探したがあの子は見つからず、変わりに腹の裂けた猫を見つけた。冷たく道路にはりついていた。
チャイムが鳴った。二度三度と鳴り、しばらくすると、ドアノブを引く音がした。そうえば鍵も閉めていなかったなと思い返し、二十センチほど空いたままの窓を見上げた。ぺたぺたと足音が聞こえてくる。
「……いるじゃん」一松さんだ。「何で居留守……っていうか鍵開いてるし、電気……。……?」
「ハァッ?えっ、なんで。なんで泣いてんの」
猫が。
「猫……?」
部屋の隅に置かれた段ボールを覗く一松さんの、息をのむ音が聞こえた。
「猫……。ほら、新しい猫。また育てればいいから」「こいつが死んでも、また連れてくるし」
泣くことは正しくない気がしたが、一度溢れてしまった涙をとめることは出来なかった。
「……えっ、なんでまだ泣くの」
「違うの。いらない、そんなんじゃない」
「……違う猫がいいの?」「……あ、違う男のほうがよかった?」
何と答えればいいのかがたしかにはわからなくて、首を振るばかりだった。
「なんで」
「…………ハァ?」
「ンデッツッテンダロォ!?」
足元の仔猫は、早く撫でてくださいと言わんばかりににゃあと鳴いた。
そうそう、忘れてた。猫には人の気持ちがわからないんだっけ。